区・町内の共有財産

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区や町内といった地域社会としての統合は、家々が隣接するという集落としてのまとまり、江戸時代におこなわれた村切りという行政的な区切りなどが直接的な要件となっておこなわれ、これが現在も受けつがれているのである。集落としてのまとまりというのは、山や川などの自然条件によって家々の配置が地理的にまとまっていたり、善光寺町や松代町のように街道や通り、小路によって家並みが形づくられていることである。

 集落のありさまは、区や町内としての統合に重要な意味をもっており、その統合の持続には役員の選任は欠くことができないし、区や町内が共有財産をもつことで、その統合はより強固に継続することになる。市域の区や町内では、何らかの共有財産をもつ場合が多く、それは共有地であったり、墓地や堂庵(どうあん)、集会所であったりし、さらに水田灌漑(かんがい)用の用水池をもつところもある。

 共有地は山林原野、耕地、宮田とその他の四種に区分することができる。山林原野については、たとえば吉では入会(いりあい)地があって、期日を定めてみんなで薪やソダなどを取りに入ったという。また、今井(川中島町)では八〇町歩ばかりの山林があって一軒六〇〇坪ずつ分けてもっている、花立では小島田財産区として他の地区と共有の山林をもっているという。広瀬では飯綱原に共有地があって、植林地と草刈場、萱場(かやば)になっていたという。八丁平というところには戦前に開墾して畑にしたところもあった。広瀬では草刈りや萱刈りは太平洋戦争後もつづいていて、刈った草は牛馬の飼料にしたり堆肥に積んだが、その七月の刈り始めと十月の刈り終わりは、「山の口集会」があって、そのときに山の口開けと山じまいの日が決められた。このあいだの期間は村人は自由に草刈りができた。男は毎朝、牛馬を連れて、朝食のヤキモチを食べながら山に行き、ひと抱えを一ソク(束)に束ねた草を牛馬の背に六束ほど付けて帰ってきたという。

 山林原野の共有は、市域全体としてはあまり顕著(けんちょ)ではないようだが、特徴的なのは千曲川や犀川沿岸の地域では河川敷(かせんじき)を区で共有し、ここを区分して各戸が畑として耕作していることである。いわゆる割地(わりち)(地割)慣行をもった耕地があるということで、北屋島(朝陽)では河川敷一四町歩を共有し、このうちの一〇町歩ほどが河原畑となっていて、これを一〇年に一度ずつ割り替えて各戸に公平に配分しているという。割地をおこなう耕地は、長谷(篠ノ井塩崎)でも千曲川河川敷にもつほか、松岡(大豆島)や真島町の川合にもあるし、四ッ屋(川中島町)では犀川の河川敷に一五町歩の共有地があって、財産区長が管理しているという。

 宮田というのは、神社に付随する水田のことで、太田では弥栄(やさか)神社の田が四、五反あった。赤沼(長沼)でも一反ほどの宮田があったという。その他としては、たとえばかつては今井や三水(さみず)(信更町)では死んだ牛馬の埋葬地を共有地としてもち、善光寺の近くの横沢町では自在庵という庵があったところが町内の土地になっていて、ここに貸家を建てて貸し、その家賃が町内の収入となって祭礼費などに充てられているという。桜枝町でも祭りなどに使う道具類が納められている倉とその土地を共有地としてもつほか、貸地として貸しているところもあって、その地代が町内の収入になっている。

 墓地や堂庵、集会所を共有するところも各地にある。西平(にしひら)(浅川)・南長池(古牧)・柴(松代町)・岩野(同)などでは共同墓地をもち、このうち柴では六〇〇坪ほど、岩野では三〇〇坪ほどの広さの墓地を共有し、太田でもかつては二〇〇坪ほどの墓地をもっていたという。堂庵の共有については、東横田(篠ノ井横田)では十王堂、瀬原田(篠ノ井)では地蔵堂、古森沢(川中島町)でも地蔵堂をもち、ここを「寮(りょう)」とよんで年に二回、念仏会(え)をおこなっていた。こうした共有の堂庵は、現在は公民館・公会堂、あるいは集会所に変わっている場合もある。広瀬では、現在の公民館は会合や毎月の念仏会に使っているが、元は寮で庵主(あんじゅ)さん(尼)がいた。赤柴(松代町豊栄)の公会堂も元は僧侶(そうりょ)がいる寮だったし、西平の公民館は元は西光庵という庵で、今でも説教所に使うのはそのためだと伝えている。中沢(篠ノ井東福寺)の集会所は、以前は中沢堂とよぶお堂で庵主がいた。田子の公民館も、ここにもとは観音堂があって寮とよび、庵主がいて、八月九日の四万八千日の法要や庚申講(こうしんこう)などもおこなっていた。庵主が亡くなって観音堂の管理が行き届かなくなり、しかも四万八千日の法要や庚申講をムラデラともよんでいる地蔵院でおこなうようになって、寮を公民館として建て替えたのである。

 用水池やため池などをもつのは、たとえば太田では用水池を四つ、ため池を二つもち、桐原(吉田古野)では太平洋戦争後、ため池の所有を財産区として法人化したが、それ以前は桐原牧神社名義になっていたという。田子では、吉との境に田子池とよぶ大きな池、地蔵院の南に堤池、田子神社境内にわき水があって、これらがいわば共有になっていて水田灌漑に利用している。ただし、田子池の水は田子だけでなく吉や三才でも使っており、その利用者で水利組合が組織されている。また、松代の肴町や鍛冶町・伊勢町・中町では、御安町に西の堤とよぶ湧水池(ゆうすいち)をもち、昭和五十年(一九七五)ごろまではここから水を引いて飲料水としていた。一町内だけでなく数町共有のもので、定期的に堤の草刈りを共同でおこなったり、町内ごとに分担して水路の掃除をしていた。各町内にはところどころにマチオケとよんだ水汲(く)み場があって、各家では毎日ここから水を汲んで水瓶(みずがめ)にためて使ったのである。

 区や町内の共有としては、堂庵のところで述べたように公会堂・公民館・集会所などとよぶ施設をもつところは多く、もちろんここに置かれているテーブルや座布団、飮食器、暖房器具なども共有のものである。ほかに太田や南長池、岡(篠ノ井西寺尾)などでは味噌(みそ)煮用の大釜(おおがま)、味噌つぶし機をもち、南長池では蚕のスクラ織機、伐採用の大鋸(のこぎり)、桑株除去機、雀脅(すずめおどし)機もあり、岡では脱穀機、縄ない機、莚(むしろ)織機などをもっていた。


写真1-54 足踏み脱穀機(芋井公民館 平成7年)