請負仕事

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生活環境は、このようにして区や町内の人たちが協力し、さらに共同して維持されてきたといえる。公益性の強い仕事を他人任せにはせず、みんなで平等に受けもつことによって地域社会の自律性を保ってきたのである。

 区や町内の生活環境を維持するためには、定期的に、あるいは臨時に協力、共同すればすむという作業のほかに、常時または頻繁(ひんぱん)にたずさわらなくてはならない仕事があった。後者は、現在では必要なくなっているが、フレニンソクといって、各戸への連絡役がその一つで、触れ歩きの人足を区や町内で賃金を出して頼んでおくことがあったし、用水池の管理をおこなう池守、神社の管理をする宮守・宮番、山の木の盗伐などを防ぐために山の見回り人を雇ったところもある。

 また、専門的な能力が必要とされる仕事もこうしたものの一つで、犀川や千曲川に面したところでは、川を渡るための渡し船を設けて船頭を雇っていた。古森沢では村の入会山が小市の犀沢山(さいざわやま)にあり、ここへ行くには小市橋ができるまでは渡し船で犀川を渡った。船頭には各家からスベ縄一本と米を二升集めて渡し、縄は船に使い、米が船頭の収入になっていた。中沢でも松代へ行くには千曲川を渡るので、赤坂橋ができるまでは船頭を雇っていたという。松代分に畑があったので、行き来は頻繁にあって、米や麦などを集めてこれが船頭の雇い賃になっていたのである。岩野でも千曲川に架かる岩野橋が流失したときには渡し船が必要で、明治の中ごろから昭和十年(一九三五)ごろまでは専門の船頭を雇い、その後は村のものが順番に船頭をつとめていた。