移住による村

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豪族によって村が拓かれたという伝承は、家の名字や地区内の神社などの事跡、地名と結びついて成りたっていることからわかる。これにたいして移住によって村が成立したというのは、地名などと結びついている場合もあるが、多くは現在につながる事跡がなく、口承だけであるのが特色である。

 たとえば千曲川沿いの花立は、もとは旧桜田神社付近に村があったが、水害が多いので堤防を築き、桜田神社とともに現在地に移ったという。犀川南岸の四ッ屋では、弘化(こうか)四年(一八四七)の震災のときの大洪水に直撃され、明神様の御神木によって水流が二分し、流失を免れた家は一戸だけだったが、もともと四戸だったので四ッ屋というのだという。瀬原田は、もとは現在よりも山のほうに集落があったが、土地がよくないので現在地に下りてきたとか、逆に戦国時代には川中島平にあったが、その後、現在の山すそに移ったという。東横田は千曲川の水害で一、二回は集落の場所が変わっていると、水害の記憶を伝承のなかにとどめている。

 また、北屋島は現在の須坂市福島(ふくじま)から四軒の家が引っ越してきた福島新田が始まりで、千曲川の河川敷と裾花川扇状地の扇端を開拓したと伝え、岡は西山から移ってきた人たちが拓いた、柴は下総(しもうさ)佐倉(千葉県佐倉市)の吉池重行が来て拓いた、入組は沼田(群馬県沼田市)から来た人と山奥の稲葉(松代町西条)から来た人が拓いた、などと伝えている。つまり、移住によって村が拓かれたというのは、災害と結びつくか、あるいは前住地を伝承として伝える場合の二通りがあるのがわかる。

 開発伝承としては、これらのほかに日方では平家の落人が住みついた、桐原は御牧(みまき)であった牧場を中心にして拓かれたと伝えているし、五十平ではよい湧水があり、しかもなだらかなところなので近郷から集まって村ができた、吉は北国街道ができて散在していた村が集まってできたといった伝承もある。田子でも「下田子三軒、上田子三軒」といって六軒だったが、北国街道が整備されて街道沿いに移ってできたという。田子の場合は、現在も三才との境付近に下田子という地籍があって、伝承が歴史的に裏付けられる可能性をもっている。

 このように村の発生に関しては、さまざまな伝承があるが、その分布をみていくと、広くいえば犀川や千曲川流域には移住によって村ができた、あるいは村が移ったとする伝承が多いのが特色といえる。