鎮守祭祀

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鎮守祭祀(さいし)については第三章で述べるので、ここでは概略だけにとどめるが、鎮守の祭祀が村の人びとの気持ちをまとめ、統合の象徴となっていることは説明を要しないであろう。たとえば田子では諏訪社である田子神社を鎮守としてまつり、村のなかの五つの組から氏子総代が出て諸役をつとめ、九月十四、十五日には祭礼がおこなわれている。幟(のぼり)は神社のほか三ヵ所に立てられ、十五日には若い衆たちがおこなう神楽(かぐら)と獅子舞(ししまい)が出る。幟立てなどの祭礼準備には氏子総代を中心に村人がそろって当たり、神楽と獅子舞は祭りの一ヵ月も前から練習がおこなわれる。

 鎮守祭祀は幟立てのような村人総出の実作業もともない、まさに村の統合の支えになっているといえる。こうした祭りは早くから都市化が進んでいる善光寺付近の諸町でも同じで、たとえば横町では市神様、西町では長野天満宮、横沢町では八幡神社、元善町では熊野諏訪神社というように、現在も町内ごとに鎮守社をまつっている。松代の町でも、かつての侍町は白鳥神社、町人町は諏訪社である祝(ほうり)神社を共同してまつるが、これとは別に、たとえば紺屋町では水神様、紙屋町では秋葉(あきば)神社と稲荷神社、伊勢町の立町では秋葉神社、西木町では稲荷神社、肴町では道祖神社、代官町では秋葉神社、馬場町でも秋葉神社というように、町内単独で神社をまつることが多い。


写真1-57 幟立て(若槻田子 平成6年)

 芋井の広瀬では、大字広瀬が、カミズとよばれる新屋・百舌原・扇平・沢浦、シモズとよばれる広瀬・洞に二分されていて、ここでは複雑な神社祭祀の様相をもっている。大字広瀬の鎮守はシモズの広瀬にある廣瀬神社だが、この神社はもとは飯縄神社で、明治時代の神社合祀政策によって新屋、百舌原、扇平、沢浦、広瀬、洞の六集落にあったそれぞれの集落鎮守を合祀して廣瀬神社になったものである。廣瀬神社に合祀された集落鎮守は、太平洋戦争後にふたたびもとに戻してまつられるようになるが、今も廣瀬神社の祭りには六集落の神楽が集まっている。大字広瀬では、このほかにシモズの二集落で葛城(かつらぎ)裾花神社、カミズの四集落で熊野神社をまつっている。つまり、大字、その下のカミズ、シモズ、そしてそのなかの各集落というように三段階に鎮守社がまつられているのである。

 まとまりをもった地域社会では、それぞれかならずといっていいほど神社を鎮守としてまつるとともに、地区によっては田子のムラデラあるいは共有の堂庵(どうあん)のように、仏教施設による法要をおこなっている。明治時代の神仏分離以前のことを考えれば、これは不自然なことではなく、祭りや法要を通じて気持ちのうえでの統合が果たされ、維持されてきたのである。