さまざまな区分

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村ということができる区や町内は、前項までに述べてきたように、実利的にも精神的にもまとまりをもった社会をかたちづくっている。そのまとまりは自律性をもった集団ということができるが、家々のつきあいや互助の実際をみていくと、さらにこのなかがいくつかに分かれておこなわれているのがわかる。

 具体的な姿を芋井の広瀬でみていくと、鎮守祭祀のところでもみたように、大字広瀬は、まずカミズとシモズに分かれ、カミズのなかは新屋、百舌原、扇平、沢浦、シモズのなかは広瀬、洞に分かれている。この六つは集落としてもそれぞれが別になっていて、このレベルで区が構成され、区長が選任されているのである。これがいわゆる村といえる社会となっているが、歴史的には大字広瀬が江戸時代には一つの村で、全体として広瀬神社をまつったりしているので、六人の区長のなかから大字広瀬を統括する大区長を選んでいる。


図1-5 田子の組

 そして、区としての広瀬のなかは、昭和三十年代の初めころまでは共同水車の利用をめぐってウエムラとシタムラの二つに分かれ、それぞれで順番を記した板と鍵を回し、各戸が輪番で夜明けから翌日の夜明けまで一昼夜ずつ利用したのである。さらに、この区分とは別に一組から四組まで四つのゴチョウ(伍長)とよぶ組があって、伍長頭が家並み順で選任されていた。伍長組は現在も引き継がれて存在し、区からの連絡事項を知らせるフレバン(触番)や各種集金をおこなう役目をもっている。広瀬は二十数戸(平成五年(一九九三)には二三戸)と小さな集落なので、葬式の場合にはムラヨリ(村寄り)といって全戸が手伝いに出て、告げ人、斎場作り、火葬場準備、買物などをおこない、区が互助組織としての役割も果たしてきたが、伍長組のような数戸の家でかたちづくっている集団としては、組とは別にウチワとよばれる仲間もある。ウチワは本・分家や親類、隣接の家で構成されていて、この仲間内で仲人、親分、名付け親、かねつけ親などを頼みあうことが多い。