はじめに

157 ~ 158

 「家」ということばが意味するものには、資産として家屋敷をさす場合と、夫婦・親子・兄弟などが生活する場であり、出自(しゅつじ)を同じくするものにとっては精神的なよりどころであるという意味での「家」をさす場合とがある。ここでは前者の「家」を漢字で家、後者の「家」をイエと片仮名で表記する。

 家は家屋という意味でもあり、実際に目で確かめることができるが、さまざまな事情によって家屋敷を手放してしまわなければならない場合もある。つまり長い時間のなかでは物理的に消滅を余儀なくされることもある。しかし、イエは資産としての家屋敷がなくなっても依然として存在し、消滅することはないと考えられている。正確にいえば消滅することはそこに暮らす人が絶えることであり、現実にはそうした状況は考えていない。つまり、イエはそこに暮らす人びとにとっても、そこから他出した人びとにとっても、自己の存在を確認できる場であり、自分の血につながる家系の確認ができる場でもある。したがってイエは物理的な家屋敷が存在しなくても厳然としてあり、このイエは出自を同じくした人びとにとっては永遠に不滅なのである。イエの過去を振り返ればそこには先祖がいるし、はるかな未来は子孫へとつづいていく。イエとはそうした長い時間の流れのなかに存在するものである。

 そのイエを維持するために長野市域では長男が跡取りとして育てられ、二男以下の男子は養子に出されたり分家したりするのがふつうである。分家をすると分家を出した家を本家、出されたほうを分家・エエモチ・シンタクなどといい、本・分家のつきあい(関係)が始まる。さらに年をへて分家から分家が出たり、本家からまた新たな分家が出されたりする。このように共通の先祖をもつと意識される本・分家集団を長野市域ではマキ・マケ・ウチワなどとよんでいる。本・分家の仲間とは特別親しいつきあい方をし、長野市域においてはマキやウチワのつきあい方が他の集団(たとえば隣組などの地縁関係にあるもの)を圧倒している。とくに冠婚葬祭などのハレの日のつきあい方にそれが顕著にみられる。

 ここではイエにたいする人びとの意識と、そこにつどう本・分家集団のつきあい方に焦点を絞って、長野市域の民俗をみていくことにする。