村のなかでどのイエでも分家を出せるとは限らなかった。分家ができるのは経済力のある財産家である場合が多い。分家は、本家が家屋敷や墓などの財産を分与して、一つのイエを立てるわけだから、それは当然のことといえよう。また、松代など城下の武家では分家が制限されていたこともあった。
分家をするものは二男以下の男子であるところが多いが、なかには長女に婿をとらせて分家に出したところもある。また、イエの跡取りである長男がまだ幼少の場合、長女に婿をとって後見人とし、のちに長男が成長して結婚すると長女夫婦を分家に出すということも、南長池・戸部・今井(川中島町)・東横田・上石川(篠ノ井)など広くみられる。
その他、女子の分家としては婚期が遅れた場合、身体が弱い場合、こどもの数が少ない場合などがあった。また、家風になじめず嫁ぎ先から戻ってきた場合や、夫に死別した場合に実家で引き取って分家させたという例も少ないながらみられた。
跡取りの長男が結婚したのちに親が分家に出ることもあった。これを桐原(吉田)や南長池などではインキョ(隠居)といい、戸部ではインキョベッケ(隠居別家)、長谷(篠ノ井塩崎)ではインキョエモチ(隠居家持)といった。多くは跡取り以外のこどもを連れて分家するので、そのイエはその親が亡くなると連れてでたこどもが継いだ。
分家させるきっかけは、土地と家を建てる財力があって、さらにウチワを増やしたいなどといったときや、二男以降にかわいいこどもがおり、婿に出したくないといったときなどにおこなわれた。また、親のインキョは、跡取りと意見が合わなかったとか、二男を分家させたいが、まだ幼少のため親がいっしょに出たといった場合があった。
ほかに、特別な例としては、後妻に男子があるときに、先妻の子の長男を分家に出したという吉(よし)(若槻)や戸部の場合もある。また、奉公人を分家させたという例もあり、桜枝町などの町場の商家では、ノレンをもらって分家するということもあった。資産家に長年いた奉公人が、その家の姓をもらって分家させてもらうこともあった。ただその場合、一代限りの分家などの条件をつけられることもあった。灰原では財産や土地などをすべて二等分する対等分家というものがあったというが、こういった例は少ない。
分家にあたえるものとしては、家・屋敷や田畑が一般的であるが、そのほかに位牌をあたえたというところが、西平(にしひら)(浅川)・栗田(芹田)・岡(篠ノ井西寺尾)・赤柴にみられる。戸部ではエンキョベッケのときだけ位牌をもっていくという。西平や栗田では仏壇をあたえるというがそれほど多くはなく、中川(松代町東条)では分家したものが死んだとき、本家から仏壇をもらうという。また墓地をあたえるというところも広くみられる。堀之内(更北真島町)では何はなくとも墓地だけは分けるという。そのほか、分家のさいにあたえるものは食器などの生活用品、農具や現金である。番頭が分家するときはノレンと屋号をあたえる。南長池ではカマドの灰を分けあたえたというイエもあった。