集まる機会

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本家と分家で構成されるマキやウチワといった集団が集まる機会としては、本・分家集団でまつる神仏の祭りや冠婚葬祭、正月の年始、盆などがあげられる。安茂里のAマキは三〇軒ほどあるが、マキ全体の集まりはなかった。数十年前に、絶えた総本家の墓地の管理の問題もあって、マキで「御先祖様の法事」をおこなった。その後はとくにマキ全体で集まることはないが、「どこの家とは同じマキだ」といった意識は継続している。ここではマキは大きな集団なので、全体として集まる機会はほとんどない。ただ五、六軒から一〇軒ほどで構成されるマキの内部組織的なウチワにおいては、冠婚葬祭や正月などに互いによびあって会食するなど親交を深めている。

 本・分家集団でまつる神仏は「先祖さま」とか「氏神様」と称されていることが多く、また「八幡様」といったようにまつられている神名でよばれているところもある。また「○○(姓)の神」とか「○○のお宮」とかとよばれたり、鎮守とよばれたりしていることもある。まつられているのは、先祖様とよばれている場合は本・分家集団の開発先祖の霊とされている。神名や氏神と称される場合は先祖がまつった神との認識はあるが、かならずしも祖霊をまつったものとは考えられていない。

 本・分家集団で特定の神をまつる場合の祭神は、稲荷(いなり)がやや多いようだが、伊勢社や荒神(こうじん)社・白山社・山の神・諏訪社・天神社・秋葉社などさまざまである。仏教的なものとしては、長谷で大日如来をまつるマキがある。同じ長谷で「覚明(かくめい)さん」をまつっているマキもあり、木曽御嶽(おんたけ)信仰にかかわっていたものと思われる。まつられた由来もさまざまで、今井で諏訪社をまつる本・分家集団では、先祖が諏訪から来たといわれ、諏訪社は養蚕の神でもあるという。現在では今井神社に合祀(ごうし)してある。境(稲里町)では先祖の御嶽行者を霊神(れいじん)としてまつっている本・分家集団があり、明治時代からまつりはじめたといわれている。

 これらは本・分家集団の全体でまつっている神仏であるが、本・分家のうちの数軒でまつっている場合もある。たとえば花立のあるウチワでは、七軒のうち三軒で稲荷社をまつっている。かつては災難よけの神社をまつっていたが、のちに本・分家の戸数が増えたので、さらに稲荷大明神を本・分家集団の守り神として総本家にまつった。しかし、その後事情があって、現在では本・分家のうち一部の家でまつっているという。


写真1-62 山の神(芋井 平成10年)

 まつられている場所は総本家の屋敷内が多く、そのほか総本家の所有地やマキやウチワの共有地である場合もある。その神をまつりはじめた特定の家の屋敷地であったり、地区の神社境内であったりする場合もある。

 祭りは春先におこなわれることが多く、祠(ほこら)の前で頼んだ神主に祈祷(きとう)してもらったあと、本家の座敷で直会(なおらい)と称する飲食がおこなわれる。このようにもとは総本家を中心におこなわれていた祭りでも、時代とともに祭祀や直会の場所を本・分家が輪番にしておこなうところが多くなってきた。

 長谷のあるマキでは、一月二日に大日(だいにち)さん、二月の初午(はつうま)にはお稲荷さんの祭りをする。マキの各戸から男女一名ずつ当番の家に集まって飲食する。また、長谷の別のマキの梵天(ぼんてん)さんの祭りは、二月二十八日におこなわれていたが、今では三月二十八日になった。分家一軒から一人ずつ本家に集まり参拝したあと、お神酒(みき)をいただき酒宴をおこなう。南長池のあるマキの神の祭りは三月一日におこなわれる。マキの全戸から戸主やこどもたちが総本家に集まり、総本家にまつってある石の祠(ほこら)の清掃をして注連(しめ)を張り供物(くもつ)を供える。全員が参拝したあと、総本家が中心となって直会がおこなわれる。こどもたちには供物の菓子や果物をあたえる。

 花立の前述したあるウチワの稲荷祭りは、四月六日と十月八日である。ウチワ七軒のうち三軒が本家に集まり、稲荷大明神に供物としてお神酒や魚・野菜などを供え、神主(のちにある祈祷師に頼むようになった)に祝詞(のりと)の奏上をしてもらってから、みなで飲食する。この場合本家が上座につく。赤柴のある本・分家集団では氏神祭りは四月三日である。先祖祭りともいい「大本家」でおこなう。先祖を拝んだあと飲食をするが、そのときの座順は決まっていない。長谷のあるマキでのお稲荷さんの祭りは四月八日と十月八日で、輪番の当番の家に一軒から一人ずつ集まって祭りをする。今井のあるウチワでは九月二十三日にお諏訪さんの祭りをしていたが、現在では今井神社の祭りと同日に祭りをしている。古森沢のあるマキのお鎮守様の祭りは日が決まっておらず、都合のよい日におこなわれる。お鎮守様は総本家にまつってあるが、祭りの当番は回りもちである。各戸から家長が参加し、女衆は食事などの手伝いにいく。費用は各戸平等に負担する。神社には供物としてお神酒や米・野菜などをあげ、神主をよんで祝詞を奏上し神事を執りおこなう。その後、お神酒をみなでいただいてから飲食する。このときの座席は本家が上座(かみざ)で、ベッケ(別家)の格によって順に下座(しもざ)になっていく。

 祭りやその直会・宴会のさいの座順については、このように決まっている本・分家集団とそうでないところがあるが、決まっていなくても自然に本家が上座につくことが多い。それによって本・分家集団内の本家の家格の高さが示され、分家(別家)のあいだでもその上下が確認されることになる。

 結婚式や葬式など冠婚葬祭にも、本家や分家が集まってくる。座順も本家が上座について本・分家間の家格が示される場ともなる。またマキやウチワの人たちは、単に参列するだけでなく、さまざまな手伝いもおこなう。犬石などでは葬式の埋葬後に、オトキと称して手伝ってくれた人にごちそうをふるまうが、それが大勢いる場合は二回に分け、初めは遠方の客で、つぎにウチワや親類でおこなった。田子では家人が亡くなると、まず家のものが近所のマキへ知らせ、マキの人が集まってくる。テイシュヤクとよばれる葬儀委員長はだいたい本家でつとめる。また、マキが集まる宴会は「北信流」といわれる形式でおこなわれる。北信流の宴席を取りしきり、進行役をつとめるテイシュヤクは、その場の年長者がつとめるが、だいたい宴会を主管するイエの本家か分家の人がつとめることになる。

 こどもの初節供や七五三祝いなどでも、長子や跡取りとされるこどもの場合は、マキやウチワなどの本・分家集団や親戚を招待する。そのほか、新築祝いや法事などのさいにもマキやウチワがよばれるところが多く、欠席するとウチワづきあいが悪いなどといわれることもある。

 盆でもとくに新しく亡くなった人の新盆の場合は、マキやウチワがその家に集まって供養する。一般の盆では分家が本家に先祖供養のために集まる。その場合、東横田のように、八月十三日の夜七時から九時ごろに本家の盆棚にお参りすると決められている場合もあるが、多くは盆の期間中に本家にお参りするというように、それぞれの都合にあわせてお参りに行っている。しかし、本家の都合もあるので、毎年だいたいいくつかの分家が顔を合わせて本・分家意識を深める機会となる。

 正月の年始も同様であるが、赤沼のように、まず本家に行ったあとに他の分家をつぎつぎに回っていくという年始もおこなわれている。また、栗田のように、暮れには本家に塩引鮭(しおびきざけ)をもって歳暮に行き、年始にはのし餅(もち)二枚をもってあいさつに行くといった例がある。

 本・分家結合の強い地区では共有物も多く、集まる機会も比較的多い。しかし、かつて本・分家関係が強固であったところでも、世代交代とともに薄れてきて、姻戚関係による親類とか親戚とよばれる関係が優先されてきていることもある。


写真1-63 マキの人びとなどが集まってお七夜を祝う(芹田 昭和46年)