若者仲間は恒常的な組織であったので、その活動は多岐にわたった。活動内容は大きく分けて、地域社会にかかわるものと、仲間自身にかかわるものとがあった。地域社会にかかわるものとしては、まず祭りの折の活動がある。境では祭りは氏子総代―祭典係―若衆頭―若衆という組織でおこなわれた。祭りにおけるさまざまな仕事は、若衆頭の指示のもとに若衆が中心になっておこなったという。祭りのときに若衆仲間が神楽を出すところは多く、戸部では神楽・太鼓・獅子舞(ししまい)を出したが、現在では有志がおこなうことになっているという。また、祭りなどの機会に村芝居をしたり、芸人をよんだりするのは若者仲間であった。
婚礼の場においても若者仲間は一定の役割を果たした。境では婚礼の席に招かれて島台を作って出したという。島台はヒロブタに高砂の爺婆とか浦島太郎とかの長生きや縁起のよいものを作ったものであった。古森沢では婚礼の席に招かれるのは青年会の会長で、そこで祝辞を述べ宝船の作りものを出したりしてにぎやかしたという。
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こうした晴れがましい場における活動だけではなく、地域社会における労働をも分担した。そうした労働は村の共同作業としておこなわれることが多く、道普請や道路整備などをおこなうことが多かった。これには南長池や東横田(篠ノ井横田)のように、冬の道つけや道路の雪掃きをすることもあった。そのほか岩野では、山の手入れや薪取りをしたし、南長池では用水の切り払いをおこない、西平では非常のときに村の警備をしたという。
地域社会の秩序を維持するためにも若者仲間は関与し、農休日に違反して仕事をしていないかどうか監視したところもある。三水(信更町)では農休日に仕事をしていると悪口をいうだけであったが、柴では嫌がらせのためにその家の縁側に石地蔵を置いてきたという。
地域社会にたいする関与だけではなく、仲間自身のための活動として、共同作業がおこなわれることもあった。東横田では千曲川河川敷に大豆を作り、それを売って道具を買ったというし、岡では共同で農場を経営し桑園などを作り、それを売って会の資金としたという。古森沢では大正時代にはろうそくを作り、それを売って会の運営費にあてたという。
また、仲間同士が教養を高めるために、夜学をおこなったところも多い。自主的な夜学ではあるが、北屋島では役員が提灯(ちょうちん)をもってよび歩いたというから、仲間としての規制のもとにあったといえよう。そこでは読書会や農事研究会がおこなわれたり、謡(うたい)の練習をしたりした。そのほか名士を招いて講演会を開いたり、討論会・弁論会を開いたりもした。そして境のように文集を作ったところもある。また、スポーツ行事をおこなうところもあり、瀬原田(篠ノ井)では運動会を開いたという。さらに遠足などをおこなうこともあったが、それらは親睦と慰安のためでもあった。集会所に集まって花札・カルタ・百人一首などもおこなった。また、盆踊りにも参加したが、吉・塚本・上石川(篠ノ井石川)などでは盆踊りを主催した。北屋島でも二〇歳になった人は、八月十四日・十五日に盆踊りを主催することになっていたという。
こうして地域社会における若者仲間の活動は、さまざまな分野にわたり大きな役割を果たしてきた。若者たちはこの集団のなかで、酒やたばこを覚え、また女の話も聞き覚えで知っていったという。このようにしてしだいに社会の構成員として成長していったのである。
娘たちの集団も処女会・女子青年団などと称して結成されたところもあるが、青年会・青年団として若者と同じ組織に加わることもあった。しかし、その活動は限定されていた。そこでは生け花・裁縫・料理・編み物・染物などを習うというような教養的な側面が目立ち、その他、文化活動・奉仕活動をおこなうというのがその主な活動であった。