信仰の対象となる社寺がどのくらい離れているかによって、代参をたてるかどうかが決まる。遠ければ遠いほど、講員全員が参詣することが困難になるからである。したがって、県外の社寺を対象とするときには代参をたてることが多くなる。そのような講の代表的なものが、三重県伊勢市の伊勢神宮を信仰する人びとの伊勢講である。
かつては各村ごとに、全員加入の組織として存在しており、氏子組織と重なっていたところもあった。北屋島では戦後まで全員加入の講があり、代参もしたという。塚本では講金を集め、二人ぐらいを抽選で決めて代参に送る。帰ってくるとハバキヌギといって一杯飲み、受けてきたお札(ふだ)とお土産(みやげ)の箸(はし)と青海苔(のり)を配ったという。東横田(篠ノ井横田)では一月二十六日にお宮に講中全員が集まって皇太神宮・春日大明神・八幡大明神の前で玉くじをひき、代参人を決めたという。二つの講から二人ずつ四人が選ばれる。代参にたつのは二月七日と決まっており、この日にはお宮にお参りしてお祓(はら)いを受けてから出発した。帰ってくるとまずお宮にお参りしてから講員にお札を配ったが、家に帰ると太神宮さんがおいでになったといって、同族縁者を招いてお祝いをしたという。
田子(若槻)ではかつて伊勢講の行事は区全体の行事であったという。代参者が出発するときには田子神社の拝殿にオガラ(麻の皮をはいだ茎)を使った小さな小屋を作り、そこに入ったという。この小屋は代参人を送りだしてから焼いてしまったという。また帰ってきたときにも同じような小屋を作り、代参人はうしろ向きにくぐってお宮にお参りしたあとで焼いたともいう。
伊勢参りは講でおこなわれるだけではなかった。抜け参りもおこなわれた。若者たちが示しあわせて親にも知らせずに伊勢参りをするものである。東横田では帰ってきたら返すことを条件として費用を借りあつめて出かけたが、親も公然と許し、借りた費用を親が順次返したという。
伊勢神宮にたいする信仰者集団が伊勢講であるが、岩野(松代町)ではそれにとどまらず、葬儀の埋葬(まいそう)に奉仕する組織でもあった。したがって講員は、葬儀などの手伝いがしやすいように地域分けがなされていた。ただ、この集団でオヒマチをおこない天照皇大神の掛け軸をかけてお参りしていたという。
交通事情の変化などで、今では代参に行くことはほとんどなくなったが、お札を取り寄せているところは多い。また、信仰にかかわるものであるため全員加入はむずかしくなり、任意で加入することになり、地域集団としての役割は変化してきている。