松迎え

203 ~ 205

すす掃きより少し前から、正月の門松を飾るための準備が始まる。松伐(き)りをする日はとくに決まっていないが、二十八日前後の日のよいときを選んで、山から伐ってくることが多い。広瀬では二十九日に採る松は苦松(くまつ)といって嫌うし、三十日に採ってきた松も一夜松といって嫌う。五とか八とかのつく日はよいが、四や九のつく日は嫌った。また三十一日には伐りにいったり、飾ったりするものではないとするところもみられる。

 門松用の松伐りだけは、どこの山にでも自由に入って伐ることが許されている。そのようななかで日方(ひなた)(小田切塩生(しょうぶ))では、自分の山の松は伐らずにわざわざ他家の山から松を伐ってきたという。また家よりも高い場所にある松を伐ってくるものだともいわれている。灰原(信更町)ではマツナワとよぶ長さ三尋(ひろ)半(五、六メートル)の縄をもっていき、ゆわえてもち帰る。まず恵方(えほう)に気をつけながら、三・五・七段など奇数の段をもつ赤松の枝を選んで伐る。枝が三段になったものはサンダンマツなどといい、形のよい松の枝を見つけると米を供えたりお神酒(みき)をかけたりしてから伐る。そのさいに、松かさを米俵に見立ててたくさんついた松ほど縁起がよいとしてもてはやす。また三水(さみず)(信更町)では、七段ほどの大きな芯松(しんまつ)を一本伐ってきて飾ったりもする。

 山ではアシアライといって、鎌(かま)などで枝元の表皮を六、七寸削ってから家にもち帰る。伐った松には神が宿るとして、土蔵や物置、縁側などの高いところに置いておく。そのときに新米や塩をますや小皿に盛って供えたりまいたりする。日方では、この米を食べるとかぜを引かないという。古森沢(川中島町)では伐ってきた松の根元部分を日陰の場所に穴を掘って埋め、大晦日(おおみそか)の日に洗って飾る。また灰原では、二十五日に伐ってきた芯松をオオマツサマとよび、ハバキヌギといって幹の元の部分を削る。そこへ供えた米を炊いて夕飯とし、尾頭付きの鱒(ます)も添えてオオマツサマの年取りをする。

 こうした松飾りが第二次世界大戦後の一時期には松林を保護するという理由から、印刷された門松になったこともあった。しかし、その後味気ないといった感情から、ふたたび枝松を飾る家が多くなった。松以外に竹をいっしょに飾ったり、柳を飾ったりするところもある。また、桜枝町などの市街地では山をもつ家が少ないために、酒一升程度のお礼をして松などを知人や親戚からもらっていたが、戦後は買ってくることが多くなったという。

 伐ってきた松は暮れの二十八日ころから飾りはじめるが、多くは三十日か三十一日に飾る。しかし、岡(篠ノ井西寺尾)のように、一夜松や一夜飾りはよくないといって三十一日を避け、それ以前に飾るところが多い。


写真1-74 松飾り
(若槻 平成9年)