正月二日は、仕事始めをする。二日の朝にするところが多いが、なかには四日とか七日、遅いところでは十七日ころにするところもある。
この日にする仕事は本格的なものではなく、屋内などで軽く藁仕事などをやって仕事始めとした。藁仕事では、藁はたきや縄ないのほかに、むしろ・ねこ・俵・わらじ・草履(ぞうり)などを男衆が作ったものである。個人でやる場合もあるが、特定の家の物置などに集まって、顔合わせを兼ねて仕事始めの作業をしたという場合も多かった。
第二次世界大戦前の養蚕が盛んであったころは、蚕のこもを編んだり、蚕種を水に浸してごみをとり消毒をしたりすることで仕事始めとするところもあった。また田植え用に使うナエデワラ作りもした。これは苗取りをした苗を縛るための藁束を作るもので、二尺(約六〇センチメートル)ほどの長さの藁をすぐり、直径一寸(約三センチメートル)くらいの束に作ったという。桐原(吉田)などではナエデワラ作りを朝飯前にやり、二〇束ほど作ったものを田植えのときに使ったという。
屋外では雪のために仕事らしいことはできないが、まねごと程度に鍬(くわ)をもったり、田んぼの麦に下肥(しもごえ)をまきにいったりした。また赤沼(長沼)などでは大正時代まで、田の水はけ口を開けたり、田起こしや肥料まきをしたりして仕事始めとしたが、現在ではりんごの剪定(せんてい)をまねごとに少しだけやって終わりにしている。
また、テハジメといって薪をのこぎりで伐(き)って焚(た)き物作りをしたところも多いし、山沿いの村では昭和三十年代までは山へ薪取りにもいった。
女衆の仕事始めは着物やぼろを縫ったり、機(はた)織りや糸を紡(つむ)ぐことなどをすることが多かった。また、入組(松代町西条)などではウチゾメといって、そばやうどんを作ったりもしたという。
このように男衆の仕事始めは、春先からの農作業準備などと関係し、女衆は衣服を中心とした家族生活と関係した仕事が多い。このほか趣味仲間での謡曲の謡(うたい)初めや将棋の初手合わせを楽しむ人びともいる。
しかし仕事始めとは名ばかりで、本格的に仕事を始めるのは早い場合で三箇日過ぎからである。多くは松の内が明けた十五日過ぎくらいとなってしまう。雪があるあいだは、野良仕事など屋外の仕事には本格的に取りかかることができない。そのため岩野などのようにダンマリハツカとかダンマリ正月とかといって、正月二十日までは仕事らしいものはしないでゆっくり過ごしていたというところも多かったのである。そのあいだは「ダンマリハツカ、ゴロリ五十日」と決めこんで、年始まわりなど親類を回ったり、家中でマキ内の家と行き来したりして過ごしていた。またこの時期に若者は、ヌケマイリといって伊勢神社にお参りにいくこともあった。
とくに野良仕事は春の彼岸過ぎまでできなかったので、冬のあいだは屋内での藁仕事などが中心であった。戸部でも「十五日年取りや二十日(はつか)正月が過ぎてから仕事を始めろや」といい、機織りは十五日年取り、藁仕事や縄ないは二十日正月が過ぎてからしはじめたという。そうしたなかにあって灰原や長谷(篠ノ井塩崎)など山沿いの村では、二月半ばころになると山仕事に行き、薪採りや炭焼きをする人もいた。里の村々でも春の彼岸前後になると、麦踏みや麦の草取り、肥(こ)やしまき、土寄せなどの畑仕事が本格化した。また、そのころから田仕事も始まり、四月初めからは田起こしも進み、田植えの準備がされる。りんご栽培農家や長芋栽培農家ではもっと早く、正月過ぎには剪定や長芋掘りが本格的となり、春先までつづく。