小正月にはドンドヤキとかドンドンヤキとかとよぶ、火祭りがおこなわれる。十五日の夕方に道祖神碑の前などで正月飾りを焼く行事で、現在も各地で盛んにおこなわれている。
村によっては一ヵ所だけでなくいくつかの場所でおこなわれるし、やり方にもわずかずつの違いがみられる。焼くこと自体をドンドヤキという場合が多いが、正月飾りを積み重ねたものをドンドヤキといったり、ドウロクジンとよんでいるところもある。
栗田(芹田)では道祖神碑が西栗田の上に二つあって、二〇軒くらいで祭りをしている。ドンドンヤキは道祖神碑のそばでする。ドンドンヤキの当番をオヤといい、くじびきで決める。世話人二人も決める。オヤになるとその家では男の子が生まれるといわれるし、村人からは「オメデトー ゴザンシテ」などとあいさつをされた。一月十四日は竹を用意し、色紙、書き初め、神札をそれぞれ縛りつけて、庭先に立てておく。ドンドンヤキの芯松(しんまつ)はオヤの家で出した。ドンドンヤキは、オヤとコの大小二つを作る。十五日の朝、月番が半鐘をたたきながら村中から正月の松飾りとわらを少しずつ出してもらい、芯松のまわりにつける。二つのドンドンヤキのあいだに縄を張って、注連(しめ)を下げる。材料を心配するのはオヤの家だが、作るのは朝飯前に村中でする。火は最初にオヤのほうから付け、つぎに「イエモチ(分家)を出す」といってコのほうに付ける。庭先に立てておいた竹を燃やしたり、こどもの書き初めや神札、だるまを焼いたりする。この火で餅を焼いて食べると風邪をひかないというし、「男の子は、またぐらをくらげて(着物をまくって)よくあぶれ」ともいわれた。
そのほかの村でも似たようなものであったが、広瀬では十五日の朝に一二歳以下のこどもたちが、木像のオンマラとよぶ厄よけの神をもって村中を回った。戦後になって、金銀の紙で作ったオンマラの姿をもって各戸を回り金や餅などをもらい歩くようになったという。また、上石川や長谷では藁で男女二体の人形を作って飾り、ドンドヤキに燃やした。日方では、十五日にはドンドンヤキをするとともに道祖神のオカリヤを作り、なかに五穀の豊穣(ほうじょう)を祈って松の木で男女の人形や農具を型取ったものを作って飾り、二十日にはそのオカリヤをこどもたちが燃やすという。岩野では大正時代初めまでは、よそから入り婿したものを抱えて「ムコ ケツアブレ」といって火に当てて子孫繁栄を祈願したり、明治時代中ごろまでは若い衆が初嫁の家を回って嫁の顔に墨を塗りたくったりもしたという。赤沼ではドンドヤキにお参りすれば良縁があるというが、妊娠している女性はこの火に会わないようにしろともいわれている。
また厄年の人が、燃えているドンドヤキのなかに銭や輪切りの大根を投げこみ厄払いをするというところもある。そのほか、ドンドヤキの火を分けてきてお茶をわかして飲むと風邪をひかないとか虫歯にならないというし、燃え残った松の枝を味噌焚(みそた)きをするときの焚きつけにすると味噌が腐らないともいわれた。灰原ではオニノメといって、燃え残りの松を持ち帰って戸間口の柱や壁にさしておき、悪いものが家のなかに進入してくるのを防ぐためのおまじないにしたりもした。