体力競技として、松代町を中心とした地域では、勝敗にかかわらず賞品にまんじゅうを出すマンジュウズモウがおこなわれた。相撲は各村の神社の祭りの機会に催されたところが多く、とくに秋祭りにはもっとも多かった。小市のように毎年でなく御遷宮のあった年の秋祭りにしたり、中沢のように豊作の年に限っておこなったり、瀬原田などのように八十八夜の行事としておこなったところもある。また、堀之内(更北真島町)では、一升ますの上にのって両足の親指をしばった姿勢から重い石をもちあげたという。古森沢ではパイスケ(土砂などを入れて運ぶかご)へ一杯に石を入れて運搬する競争をしたし、赤沼ではもみ俵や芋俵、ごほう俵などをかついで力比べをした。赤柴では背負い子で荷の背負い比べをし、灰原では丸い棒を太股(ふとまた)の内側に当てて二人で押し合い、太田では祭りに若い衆が集まったときにモッコ棒を使って棒押しをして力比べをした。
また、かけごととしてホウビキ(宝引)がおこなわれた。須釜・岩野では人数だけの綱かひもを用意し、そのうちの一本の先端などに銭をくくりつけ、それを引き当てたものを勝とした。戸部でおこなわれた銭ころがしは、パッチ(めんこ)の表裏を丁半にみたて何枚もかけさせて、親方が五厘銭や一銭玉をまわして、はずれたもののパッチを取り合った。四ッ屋(川中島町)では、竹を小さく二つ割りにして、その表裏を当てるギッチョコチョがあった。
花札は、一二種類の植物などが描かれた四八枚の札で、これを使って赤沼・長谷・入組(松代町東条)ではその図柄の組み合わせで役を作り点数を取り合った。勝負により金銭をかけた。太田では、正月の娯楽として花合わせ・百人一首などをした。地豆(落花生)やみかん程度のものをかけて、若衆の寄り合い所でやった。
技術的な競技として、古森沢では、縄ない競争があった。三〇尋(ひろ)一把(わ)で一〇把一束を一日にないあげる競技であった。
動物を主体とした競技はあったが例はきわめて少ない。田子では、しやもを飼ってけりあわせる闘鶏会が昭和初年ごろまでおこなわれていた。堀之内では、真島町本道で、しゃもを飼い、空き地に穴を掘ってそのなかでけりあいをさせた。