出産

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一番目の子は嫁の生家で産むことが多かったが、婚家で産むときは、ほとんどお勝手などの隣にあるネマとかネドコとよばれる暗く狭い部屋が使われた。田子でも、お勝手の隣や座敷の裏などにあるネマあるいはネドコとよばれる若夫婦の寝室が出産の場として使われた。産婦は、藁布団のうえに油紙などを敷いたところに横になり、いよいよ産気づいてくるとトリアゲバアサンや産婆さんがよばれ、女親分やウチワなどの女衆も手伝った。トリアゲバアサンには親分がなることが多く、出産のときだけではなく、出産から二〇日目のヒアケのころまでこどもにお湯をつかわせるために毎日通ってくれることもあった。しかし、昭和三十年代ころから病院で産む人が多くなり、産婆さんなどの活躍はみられなくなった。

 こどものへその緒はトリアゲバアサンが茅(かや)や葭(よし)で切るところもあったが、しだいに産婆さんがはさみで切るようになった。へその緒は大事に保管した。西平(にしひら)(浅川)・北屋島(朝陽)などでは嫁入りのときにもたせ、十二(じゅうに)(篠ノ井有旅(うたび))ではこどもが大病したときや夜泣きするときに煎(せん)じて飲ませた。

 後産の始末も丁重におこなわれ、屋敷内や樹木の根元に埋めたところもあるが、中沢(篠ノ井東福寺)・入組(松代町西条)などでは墓地、灰原(信更町)や須釜(すがま)(若穂保科)では村の共同の場所に埋めた。上石川(篠ノ井石川)・戸部などのように人の踏まないところや、明きの方に埋めたりするところもあった。また、後産は鬼門など方角の悪いところに始末すると嫁の体にあたるといわれ、夫などがお産をした部屋の床板をはずして埋めたところもあった。

 生まれたこどもを湯につかわせることをウブユ(産湯)といい、トリアゲバアサン、産婆さん、女親分、女仲人などに頼んだが、最近では家の設備が整っているため風呂を利用して産湯をつかわせることもある。たらいの回数や湯をつかわせる期間についての言い伝えもあった。松岡(大豆島(まめじま))では多く浴びさせるほど顔だちがよくなるといわれ、五十平(いかだいら)(七二会(なにあい))では一〇〇回つかわせた家もある。


写真1-97 産湯をつかう (芹田 昭和46年)

 産湯をつかわせる期間としては七日・一〇日・二〇日・二一日・三〇日・三三日・五〇日・七〇日・一〇〇日などさまざまであった。栗田(芹田)では一〇〇日間つかわせると健康になるといわれ、女親分や女仲人が毎日通ってたらいに入れてくれた。こどもが大きくなるとやりにくいため、お宮参りのころには風呂に入れた。産湯に使うたらいは花嫁道具のひとつとしてもってくるところが多く、姑や嫁はひとつずつ自分のたらいをもっており、出産以外のときには洗濯などに使った。

 夫は出産のとき家にいてはいけないとするところもあった。桜枝町・綱島(青木島町)などでは初めての出産のとき夫が家にいると、つぎの子の出産のときにも夫がいなければ生まれなくなるといわれて外出していた。柴(松代町)でも夫は妻の出産を見るものではないといわれ家にいなかった。このほかにも、出産のときに夫が家にいると産婦の心が動揺して難産になるので、夫は家にいてはいけないとするところがあった。栗田・小市(安茂里)などでは夫は家にいてもよいが産部屋に入ってはいけないといわれた。

 逆に、夫に手伝ってもらうために家にいたほうがよいとするところもある。東横田(篠ノ井横田)では後産を埋めるためにも夫は家にいるものだとされ、岩崎(若穂綿内)でも産婆さんや医者をよびにいくときに困るから、出産のときには夫は家にいるものであるとされていた。