子守りには家の年寄りや兄弟、あるいは近所のこどもを頼むことが多かった。また、年寄りのいない家では縁続きの家やケイアン(奉公人や雇い人を周旋する人)に頼んで子守りをさがしたり、芋井などの西山から子守りのこどもを雇うこともあった。城山小学校・後町小学校には子守り学級があり、こどもをおぶっていく子守りのこどももいた。西之門町の商家では、こどもが生まれると子守りを雇い、その子守りが年をしてくると女中として家の手伝いをしてもらったという。
子守りとのつきあいは家によってさまざまであったが、南長池などでは子守りを近所や縁故者と同一に扱い、祝宴のときにはカッテモトゼン(勝手元膳)、またはゴクロウゼン(御苦労膳)とよばれる席に招いた。桜枝町では長くこどもの面倒をみてくれたときには、嫁入り先まで心配し親類同様につきあったという。このようなつきあいのほかに、子守りを頼んでいるときだけつきあい、その後はいっさいつきあわないところや、こどもが三歳になるまでは、盆や暮れに着物や現金を渡すところもあった。