告げ人

283 ~ 284

人がなくなったことを近親者などに通知する人のことをツゲビト(告げ人)とかツイビトまたツギビトなどとよんだ。桜枝町ではヒキャク・オヒキャクなどという。現在は死亡の連絡といっても電話ですませてしまうことが多いが、かつて電話が普及する以前は、告げ人が実際に歩いて死を通知にいったのである。現在でも寺へだけは告げ人が葬儀の依頼や打ち合わせにいくというところもある。

 告げ人には講仲間や子分などがなる。田子では親類の男衆がなったという。中沢では死亡の触れが出ると講中のものが死者の家に集まり、帳付けが音頭をとって告げ人の役を決めた。ここでは講中の順番が決まっており、帳面の上に印をつけておき、印の少ないものから告げ人になったという。その帳面は、つぎの不幸があるときまでその家に置いておき、不幸ができたら回したという。

 告げ人は一人あるいは二人で行ったが、二人で行くのが昔からの習慣であるとされることが多かった。戸部では遠いところへは二人で、近いところへは一人で行ったという。灰原では二人で行くのが正式で、一人で行くのは略式であるといっている。二人で行くのは死亡を間違いなく伝えるためであるとか、先方を重んずるためであるとか、あるいは一人で行くのが寂しいからといったような理由があげられているが、その理由は明確ではない。犬石では遠くの親戚に告げに行くために夜通し歩くようなときに、狐にだまされることもあったという。また灰原では、昔は告げ人は目印や用心のために刀を一本挿していったものだという。

 知らせを受けた家では、告げ人に酒や食事を振る舞うとしているところが少なくない。五十平では「(告げ人は)カラクチで帰すものではない」といって食事を出したりした。