長野市域で座棺から寝棺に変わってきたのは、土葬から火葬に変わってきてからのことである。善光寺平では早いところで昭和の初めくらいから変わってきたといわれるが、戦前までは座棺だったというところが多い。戦前にも寝棺はあったが、その場合、棺を運ぶためには座棺よりも大きな輿(こし)を使用しなければならず、そのための経済的な負担が大きかったので、座棺が多く使われたともいわれる。座棺にはひざを折り曲げ、さらしなどで巻いて納めていた。
土葬から火葬に変わってきた時期は地区によって違いがある。田子では、長野市に合併する昭和二十四年(一九四九)以前は土葬と火葬の両方がおこなわれていた。田子の地区内には決まった火葬場もあったが、当時の中心は土葬で、火葬は薪の値段が高いため、経済的に余裕のある家だけがおこない、また、はやり病のときにおこなったのだという。ここでは昭和の半ばから寝棺になったが、棺は三才(古里)や豊野町などの店で作ってもらっていた。また犬石では昭和四十年ころまでは土葬であった。寝棺になったのは三十年代の後半からで、数年間は寝棺で土葬をするという状態であったが、長野市への合併を境にし、火葬に変わってきた。座棺のころには、葬式の当日に講仲間が幅二尺七~八寸(約八〇~八五センチメートル)、高さ三尺ほどの棺の大きさにあわせて六尺くらいの深さの穴を掘らなければならなかったが、火葬になってからは骨箱が埋まるほどの深さの穴を掘るだけになったため、講仲間の役目は非常に軽くなったという。また土葬のころは自分の家の墓があるところを深く掘ったため、前に埋めた骨が出てくることがよくあったという。そのようなときはザルに骨を集めて座棺にいっしょに入れて埋めたという。