葬式を友引の日に出してはいけないというところは多い。また、寅(とら)の日に葬式を出してはいけないというところも少なくない。綱島のように仏滅の日に出してはいけないといっているところもある。
遺体を納めた棺を中心にして、近親者や近所の人びとなどが行列を作って寺や墓地に送っていくことをノベオクリ(野辺送り)という。現在では霊柩車(れいきゅうしゃ)を使い棺を火葬場まで運ぶようになったので、野辺送りの葬列を見ることがなくなった。市として霊柩車を使うようになったのは昭和二十二年(一九四七)ころからのことである。
野辺送りのときには棺を座敷から外に出し、輿にのせて墓地まで送った。松代町御安(ごあん)町では近親者だけが墓まで送り、近所のものたちは町境まで見送ったという。犬石では昼過ぎに講仲間により出棺の寄せ鐘が鳴らされると人びとが集まってきた。ここでは「人は一生に二回(生まれたときと亡くなるとき)見られる」といわれ、地区内の人びとが集まって出棺を見守ったという。野辺送りの行列は講仲間の年長者がたたく寄せ鐘を先頭にし、そのあとに先灯籠(さきとうろう)とサキバタ(先旗)、寺の住職が進み、つぎが遺族である。枕飯・味噌汁・生団子などをのせた膳を亡くなった家の男衆または家族がもつ。そのあとに棺をかついだ四人の講仲間、花をもった人、後灯籠とアトバタ(後旗)がつづくという。田子の野辺送りは住職、身内や親類、棺、白い旗や四角い提灯をもった人といった順序であり、大正十二年(一九二三)ころまでは棺は輿にのせて運んだという。
犬石では野辺送りの行列が寺や墓地に着くと棺を棺台の上に置き、住職が経をあげて引導を渡し埋葬をした。住職が引導を渡すときには小さな鍬(くわ)を輿に投げた。これは仏が掘って極楽に行けるようにするためだという。田子ではこのとき棺を左に三回回して穴に納め、身内がひとすくいずつ土をかけてから棺を埋めた。
埋葬のときには棺といっしょに枕飯、味噌汁なども埋めた。また仏が着ている着物の左そでを、はさみなどを使わずに手で破って埋めた。そして土をかけた上には石を置いた。これは獣などに掘り返されないようにするためであるという。
また、魔除けとして、盛った土のまわりに七本の竹と、葬列の灯籠二本を立てて上部を束ねた。
田子では隣組の二人が天秤棒(てんびんぼう)で棺をかつぎ、火葬場まで野辺送りをした。火葬場に着くと棺を三回左に回してからあらかじめ準備された薪の上に北枕に置き、住職が喝(かつ)を入れる。このとき住職は小さい鍬を三回手で回し、輿に向かって投げて喝を入れた。これは死者が鍬で耕しながら浄土へいけという意味であるという。また輿のまわりをたいまつをもって左回りに回ることもあった。そして親類などがお参りをすませたあと、隣組のものが火を付けて火葬をおこなった。火葬のさいには、死体が転がりでることもあるので火を付けたあと、隣組のものが一~二時間ごとに野回りをしてようすを見た。
翌日親類のものが火葬場へ行き、お骨取りをした。僧侶の読経のもと、左箸で骨箱に骨を納めるのである。
野辺送りのさいに棺を左回りで三回から三回半回すところが多いが、これをトムライマワリ(弔い回り)とかノベマワリ(野辺回り)などという。岡田ではジャンボマワリなどという。また左に回るということから単に左回りとよぶこともある。灰原ではイシウスマワリ(石臼回り)といい、ノノジマワリ(「の」の字回り)はよいが、イシウスマワリは左に回るから嫌うなどといっている。
逆に吉や長谷などでは右回りを忌むといい、こうしたところも数は少ないながらある。中沢では寺の庭の板木をたたいて三回半右回りをして野辺送りをしたといっている。