まず、長野盆地の長野市域において、耕地に占める水田の割合(水田率)の分布を、『長野県町村誌北信編』(長野県、一九三六年刊)に載る明治八年(一八七五)の統計を用いて見てみよう。図2-2がそれである。これをみると、明治八年の段階で早くも水田が耕地のほとんどを占める地域が、標高三五〇メートルから四〇〇メートルの長野盆地の平坦地(へいたんち)に形成されていることがわかる。なかでも水田率が八〇パーセントを超える地域が、千曲川の西岸を中心に、犀川(さいがわ)を境にして、北に芹田(せりた)・古牧・吉田など、南に川中島・更北(こうほく)といったところに集中して存在していた。そうした犀川を境とした北と南にある水田率の高い地域を、この章では、それぞれ善光寺平・川中島平とよび分けることにする。
つまり、市域の長野盆地では平坦地のなかでも耕地の大半が水田化された地域を「平」と表現し、一般にタイラ・テエラとよんでいる。長野では平は単に地形を示すことばではなく、のちに順に述べていくように、長野盆地における風土の一類型としてとらえることができる。
こうした平の地域は、図2-3にあるように、山間地の水田が用水を天水・湧水・ため池などに多く依存するのとは対照的である。平の水田用水はそのほとんどを河川水に頼っている。平は河川から引いた用水路(セギ)が網の目のように張りめぐらされた地域であるといってよい。必然的に、そこには昔から水利組織が発達し、水利をめぐるさまざまな慣行が存在している。
このような民俗空間としての平は地理的な意味での盆地底部の平坦地という意味にとどまらない。平は耕地のほとんどが水田化されているため、人びとの暮らしは稲作に極端に頼らざるをえず、必然的にさまざまな生活の規範が稲作をめぐって作り上げられていた。
つまり、平とは水田稲作を基盤とした風土であると考えられる。もう少しこまかくみてみると、それは水田をめぐる水利系統の違いに由来したものであることがわかる。市域の長野盆地の場合、先にも示したように、それは大きく善光寺平と川中島平に分けられよう。犀川を境にして北側が善光寺平、南側が川中島平である。川中島平(犀川扇状地など)は、犀川から導かれる上中下セギが犀口を扇の要として南東に用水路網が広がる地域をさす。それにたいして、善光寺平(裾花(すそばな)川・浅川扇状地など)は、浅川・裾花川といった飯綱高原に源を発するいくつかの河川から引かれるセギにより耕地が潤される地域となっている。