水田二毛作をおこなうための第二の条件は、労力に関係する。一般に水田二毛作による麦栽培が可能な地域は、年平均気温が一二度以上、五月から九月の平均気温が一九度以上のところまでだといわれる。もし、それ以下であると、裏作で栽培する麦の成熟がおくれ、表作の稲の田植えに間に合わなくなってしまう。昭和初期においては、長野はちょうど日本における二毛作可能な地域の北限に位置しており、麦の刈り取りと稲の田植えの作業(六月中旬~七月上旬)、および稲刈りと麦の播種(はしゅ)の作業(十月中旬~十一月上旬)はほぼ重なってしまう傾向にあった。そのため、その二つの時期に農作業は極端に忙しい時期を迎えることになる。そうしたとき、どのようにして稲作労働に麦の収穫や播種の作業を組みこんでいくかが大きな課題となる。
たとえば、田植え準備(稲作作業)と麦刈り(麦作作業)との関係をみてみよう。
前述の檀田では水利上の制約から、田植えは昔から七月一日から五日までのあいだにおこなうことになっていた。そのため、遅くとも六月下旬までに麦を刈り取ってしまわなくてはならない。そうしないと、麦刈り跡の耕起、畦畔(けいはん)の整備、代かきといった田植え前の準備をすることができない。
しかし、往々にして、春先の天候の関係でそれまでに麦が十分に成熟していないことがあった。しかも、浅川の一〇ヵ村におよぶ水利組合の取り決めを檀田が勝手に変えることは許されず、田植えの日取りを遅らせることはできない。そのため、檀田ではこうしたときはあくまでも表作の稲作を優先して、たとえ麦は未熟でも刈り取ってしまった。こうした状況は、河川水をセギにより引いて水田用水としている平では共通したことである。
また、檀田では、そうした影響を少しでも小さくすることを目的に、麦の品種を選択していたと考えられる。大麦は小麦に比べて五日から七日ほど成熟が早い。檀田では、大麦の収穫は六月十五日から二十二日までにおこなわれるが、小麦はその五日から七日後になってしまう。そうなると、小麦を多く作るとどうしても田植えが間に合わなくなってしまう。そのため、檀田では裏作麦は大麦を中心にせざるをえなかった。ただし、そうしたときでも裏作麦をすべて大麦にするわけにはいかない。ひとつには、食生活における小麦の必要性が大きいことがあげられる。そして、もうひとつには、すべて大麦にしてしまっても実際は麦の収穫作業が一時期におこなえるものではなく、適当に小麦も混ぜることにより麦刈り労働の短期集中を避けることができるからである。