山の生活は平とは対照的である。とくに生業活動においてはその傾向が強い。そうした姿を、飯綱高原の山腹に位置する集落である広瀬(芋井)を取りあげてみてみることにしよう。広瀬は標高七五〇メートルにあり、畑作を中心としながら緩傾斜地に棚田状の水田を開いている。『長野県町村誌』によれば、畑七一町五反・水田二九町六反あり、耕地全体に占める水田率を単純に計算すると約二九パーセントとなる。
一般に長野では山においても、谷間や山麓(さんろく)部の比較的平坦な土地を利用して水田を作っていた。しかし、それは平のように生業の中心になることはなかった。耕地の多くは畑で、当然耕地全体に占める水田の割合は少なかった。そうした畑や水田を利用して、表2-2にみられるように、稲や麦のほかにも粟(あわ)・稗(ひえ)や各種の豆類などさまざまな作物を栽培してきた。
また、そうした田畑に比して、所有する山の面積ははるかに大きなものがあった。広瀬には約一一九町の山林と五〇町の草野があり、さらに飯綱山麓には入山・上ヶ屋・富田とともに四ヵ村入会の秣(まぐさ)刈場一三一五町があった。そうした山を利用して、林業をはじめ採集・狩猟などさまざまな方法でなりわいを立ててきた。
このように畑を中心とした耕地と山の空間を利用して、さまざまな生業をおこなうところに山の生計上の特徴がある。いいかえれば、さまざまな生業の組み合わせを維持し、平の村のように水田稲作といったひとつの生業にだけ集中しないことに、山における生計維持の主眼があったといえる。
また、もうひとつの生計上の特徴は、平に比べると金銭が比較的早くから生活に浸透していたことがあげられる。農家の現金収入源として、明治以前から繊維をとる麻や紙の原料となるこうぞ(楮)といった商品作物を栽培し、かつ町へは奥山などに比べるとはるかに近い利点を生かして薪や炭を出荷してきた。また、明治になってからは、そうした商品作物に並行して、養蚕が盛んにおこなわれるようになった。さらにいうと、昭和五年(一九三〇)の繭価の暴落による養蚕不況を境に、りんご栽培が急速に普及し、また第二次世界大戦後はりんごに加え、葉たばこやホップの栽培も盛んになった。
『長野県町村誌』には、明治十三年(一八八〇)における広瀬村の物産として、表2-2に示したように一八品目の産物が上がっている。穀類や野菜などの自家消費のための産物と並んで、薪や麻など長野の町へ出荷することを目的とするものが、七品目もあることがわかる。表2-1に示した檀田の産物にみられるように、平の村では、年貢となる米を除く生産物のすべてが、自家消費を主目的としたものであることとは対照的である。