町としての善光寺町と松代町を比べた場合、長野の場合その中心には善光寺という宗教空間が存在するのにたいして、城下町として栄えた松代町の場合には当然その中心に城が存在する。ここに示す明治十年代においては、まだそうした対比が鮮明であった。
『長野県町村誌』において明治十年代に記録された旧長野町のようすは左のとおりである。
家屋北国往還に位置す。巨刹(きょさつ)あり善光寺と称す。其規模宏大、或は仏都と称するに至り、幾(ほと)んど村名無きが如し。市廛鱗次(してんりんじ)し物貨輻輳(ふくそう)す。明治四年県置以来人煙稠密(ちゅうみつ)、繁華昔日に倍蓰(ばいし)す。同七年十一月合併(長野村と箱清水村)して一村となり、村名を廃して長野町と改む。
これは、北国街道という交通の要所に位置し、かつ巨刹善光寺の仏都として栄えていた長野が、明治の廃藩置県後もさらに都市として発展していくようすをよく描いている。明治八年に県立師範学校、同十年には裁判所、同十一年には電信分局、同十二年には県立長野県病院、同十一年から十三年にかけては第十九国立銀行をはじめとする銀行六行が開業し、経済を中心とした都市機能は近代以降もさらに充実していった。
そうした善光寺町にたいして、松代町は松代藩の殿様がいる場所として、つまり政治の中心として存在する。松代の中心には城があり、その周囲に殿(との)町や馬場町といった士族街が計画的に配置され、また町のなかには藩政に関連して商人街や職人街が形成されていた。しかし、松代においては廃藩置県後は急速に町の地位は低下し、近代以降長野盆地の町はあらゆる面で善光寺町に集中していったといえる。そうした松代町の明治十六年(一八八三)のようすは、『長野県町村誌』に左のように記されている。
昔日唯城郭也、藩士賜邸也、市井也、寺社除地(じょち)なり、物産の出るに所無し。又商売する所、工匠の造り出す所、十の八九藩府及士大夫(しだゆう)の需用に供し、輸入多く輸出少し、且つ廃藩と共に絶たるもの亦(また)多し。
維新廃藩之際、士の金を失ふ事総計すれば、数十百万に余る可し。是以富者先づ破産して、貧者之に次ぎ生計を失て困窮に陥り、商売資源塞(ふさがり)て商況衰弊せり。