つぎに、町における生業に注目してみよう。『長野県町村誌』は、明治十年代当時の長野町の生業を、以下のように記している。なお、当時の戸数は、二二二七戸(本籍二一六五戸、社一三戸、寺四九戸)である。
〈民業〉
男 農桑(のうそう)を業とする者百十四戸、工を業と為(な)す者三百四十一戸、雑業三百二戸、商を業とする者千四百八戸。
女 三千九十人、専ら農商に従事し或は紡績機織(はたおり)を為し又は日傭(ひよう)を稼ぎ其家計を助く、男女とも其業区々にして一を以て名(なづ)け難し。
すなわち、職業別の割合を示すと、商が六四パーセント、工が一五パーセント、農桑が五パーセント、雑業が一四パーセントとなる。商と工を合わせると約八〇パーセントにも達しており、職業構成のうえで長野町は当時長野県下ではもっとも都会的であったといえる。基本的にそうした都市的な性格・機能は現代まで変わらない。
そうした旧長野町のようすにたいして、長野におけるもういっぽうの中心であった松代はどうであろうか。やはり『長野県町村誌』により、明治十六年当時の松代町の「民業」の戸数を抄出してみると、左のようである。
男
士族五百七十人 商業の者四百二十二戸 工匠を業とする者二百二十五戸 農桑を業とする者二百十三戸 漁猟(ぎょりょう)を業とする者三十二戸 養魚者九十戸
女
縫織を業とする者、養蚕を業とする者千二百人
松代は、長野町にはおよばないものの、城を核としてその周りに商業地や職人街が存在すること、および当時八ヵ所を数えた製糸工場と、そこに雇われた数百人の女子工員を中心とした工場労働者の存在に、生業からみた町としての特徴があるといえる。
善光寺町と松代町に共通する面に注目するなら、民俗的空間としての町は、まさに商業者や職人・女子工員などの手工業従事者・工場労働者を中心とした都市生活者が生活する空間をさすものであるといえる。そこにはまさに平や山とは明らかに異なった町の雰囲気が醸しだされ、町の風土が形成された。