自然の管理

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自然とのかかわりに重点を置いて作成した民俗地図から読みとれる町の領域は、先に示したように、平でも山でもない空間ということになる。しかし、平や山にない生業のなかに、そうした自然との関係で特筆すべきものがある。松代町における養鯉(ようり)業である。そこには、いってみれば自然を管理する意識が見てとれ、町の風土のもつひとつの大きな特徴を示している。

 ほんらい町とは、区画された街路や住宅の存在が示すように、それは反自然的なもの、つまり自然を改変することで作りあげられたものであるといえよう。そうしたところだからこそ、養鯉業のような、いわば自然を人が管理する形で営まれる生業が存在することができるのではなかろうか。それは、山や平の風土がいわば自然と人との共生関係のうえに成りたつのとは基本的に違ったものであるということができよう。

 『長野県町村誌』に載る明治十六年の調べでは、松代町には九〇戸の養魚者つまり養鯉業者がいたとされる。しかも、その多くが士族であり、「蓋(けだし)宅地広く水利便ならざれば為す事能(あた)はず」と記されている。養魚のにない手が、自然との共生関係をもって生活せざるをえない農民や漁師ではなく、むしろ自然との関係を農民や漁師ほど強くもつ必要のない士族であったということも、自然を管理するという性格を強くもつひとつの要因となっていると考えられる。

 松代町は武家屋敷を中心に区画され、そこには生活用水として利用するために人工の水路であるセンスイロ(泉水路)が配置され、さらにそれは屋敷に引きこまれてやはり人工の池であるセンスイ(泉水)を作っている。こうした人工の用水施設が主に養鯉に用いられていた。平においても養鯉は自家消費を目的としておこなわれるが、その場は水田が主であるのとは対照的である。

 養鯉がいかに自然を管理してなされるものであるかということを、いくつかの例をあげて示してみよう。ひとつは産卵孵化(ふか)技術をあげることができる。これは養鯉業を営むうえで欠くことのできないものである。動物が子孫を残すという、もっとも基本的な本能の部分を人が管理するわけである。養鯉業者は親鯉を絶えず養成し、時期が来ると産卵池に移してやる。池にはあらかじめ藻が敷き詰められており、その藻が産卵床となり鯉が産卵する。そのとき鯉の成熟時期さえも人が水温の調整などの方法によりある程度操作することができる。こうした産卵孵化をめぐる一連の技術は、まさに人による自然の管理そのものであるといえよう。松代町の場合、松代藩士鈴木市兵衛に代表されるように、旧士族がそうした技術を発展させ継承するうえで大きな役割を演じていた。