ひとことでいえば、早乙女やタアブチ・タアカキは、山と平との自然条件の差を利用しておこなう経済行為である。この場合、自然条件の差とは山と平のあいだでの田植え時期のずれのことをいう。たとえば、山の村である芋井広瀬では田植えは例年六月十五日のオオダウエ(大田植)の日の前までにおこなわれる。それに比べて、善光寺平や川中島平の平では一番遅いところでは七月中旬まで田植えがおこなわれる。そうしたようすは図2-16に示すとおりである。
図2-16からは、山ほど田植えが早く、平に行くほど田植えは遅くなる傾向にあることがわかる。さらにこまかくみると、山のなかでも里山に比べ奥山ほど田植えは早くおこなわれる。また、平のなかでも、盆地北西部に比べると、千曲川沿いの集落ほど田植えが遅いことがわかる。
そうした約一ヵ月にもおよぶ田植え時期のずれが、山から平への出仕事を可能にしている。図2-14・15と田植え日を示した図2-16を重ね合わせてみると、早乙女やタアブチ・タアカキに行くか行かないかは、ほぼ六月中に田植えを終えられる地域か、それ以降にならないと田植えができない地域かの違いとして理解される。
もうひとつ山から平への出仕事を可能にした要因としてあげられるのは、山では水田は稲のみの一毛作であるのにたいして、平では水田の多くが稲と麦の二毛作であったことである。それは先に図2-4に示したとおりである。二毛作をおこなうと、水田の耕起や代かきは麦刈り後にしかできない。善光寺平では水田の麦刈りができるのは六月中旬であるため、田植えまでの時間的な余裕は一ヵ月もない。その短い期間に水田の耕起・代かき・田植えの作業が集中する。そのため、どうしても山の労働力であるタアブチ・タアカキや早乙女に頼らざるをえなかったと考えられる。
また、もうひとつの要因として、平では土地の多くが水田化され、無駄な土地がほとんどなくなっていたことがあげられる。前掲の図2-8に示したように、明治初期にはすでに山林原野をもたない平の村が多く見いだされる。過度な稲作への集中は、結果的に採草地となるような里山・低湿地・氾濫原(はんらんげん)・荒蕪(こうぶ)地などの山的な環境の消滅を意味する。
そのため十分な飼料を確保することができず、牛馬を飼うことができない。けっきょく、そうしたとき畜力を農作業に導入しようとすれば、必然的に古くから牧の伝統をもつ山の地域に頼らざるをえなかったわけである。図2-17は、長野盆地における牛馬の飼養状況を示したものであるが、山には最大で一戸に一頭の割りで牛馬が飼われているところがあるのにたいして、平では牛馬はほとんど飼われていなかったことがわかる。なお、牛と馬を比べた場合、長野盆地では昭和初期以前は圧倒的に馬のほうが多かった。
つまり、平の村が生業を稲作に集中し、さらに水田二毛作を高度に発達させることができたのは、人および牛馬に象徴される山のもつ力があったからであるといってよい。
また、反対にみれば、山は平との環境の違いを利用して、金銭などの報酬を得ていたといえる。山の人びとにとっては、タアブチ・夕アカキや早乙女は重要な金銭収入となっていた。水田をほとんどもたない鬼無里村や戸隠村など奥山の人びとにとっては、かつては報酬を米でもらうことも多く、金銭とともに米の入手法のひとつでもあった。
また、もうひとつ注目したいのは、山からの平への出仕事は、山の人にとって金銭や米を得るための労働であると同時に、毎年めぐってくる娯楽のひとつと考えられていたことである。山の人の多くは、毎年平に出仕事に行くことを楽しみにしていた。とくに山の女にとっては、上げ膳(ぜん)据え膳の食事をし、田植え後にはごちそうを振る舞われる早乙女期間は、家にいるときとはまったく違った心地になれたという。また、北島篤『善光寺平田植労務史』によれば、そうした非日常のもつ娯楽性とともに、より遠くから善光寺平へやってくる早乙女にとっては、女の信仰が厚い善光寺への参詣を兼ねたものであったといわれ、信仰的な性格もかつてはあったと考えられる。