町の在にたいするまなざしは一種見下したようなところがあったが、町はそうした在の存在を越えて、さらにその先にある町を見ていたということができる。とくにその傾向は鉄道の発達により強化されたと考えられる。鉄道は町と町とを結ぶものであり、魚屋でいえば、長野の在の先には奥山でも里でもなく、明らかに直江津(上越市)や飯山といった町を見ている。
飯山は城下町として栄えた町で、かつては飯山相場ということばが残っているように、日本海岸から入ってくる海産物や塩の市が立ち、北信地方全体におけるこれらの相場の大枠が決まったところである。しかし、明治二十六年(一八九三)に信越線(直江津-高崎間)が開通することにより、そうした飯山の商業地としての地位も相対的に低くなる。それにともない、長野の町人(とくに魚屋)の目はさらに先の町である直江津へと向けられるようになる。
近世から海運業などで栄えた港町の直江津には大きな魚問屋があり、長野の魚屋はほとんどそうした直江津経由で魚を仕入れていた。そのため、長野の人のなかには、にしんやますは直江津でとれるものと思いこんでいた人も多かった。実際は直江津は海運により物資の集散地となっていたため、そこにある魚問屋は中卸(なかおろし)を中心におこなっており、直江津周辺の魚だけでなく北海道やそのほかの遠隔地の産地から魚を買いつけ、それをさらに長野の魚市場に注文に応じて送ってきた。
また、善光寺町の魚屋のルーツをたどると、新潟県の出身である場合が多かった。そうした関係から、長野の魚屋のなかには取り引き関係のある直江津の魚屋(中卸)に、自分の跡取りを小僧として修業に出すこともあった。そのように善光寺町の魚屋にとって、直江津は昔から関係が深かったといえる。
こうしてみると、町の視線はつねに自分たちの暮らす町内部と、それを越える場合は、さらに先の町に向けられていたといえる。