地すべりと家屋敷

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生命に危険をおよぼす災害の一つとして、地すべりがある。山崩れもこの一種であるが、長野市西部の山間地域には、もろい裾花凝灰岩(すそばなぎょうかいがん)の地層が走っており、弘化四年(一八四七)三月二十四日の善光寺大地震のさいの地すべりでは各地に大被害をもたらしたし、昭和六十年(一九八五)の地附山(じづきやま)の大崩落は人びとの記憶に新しいところである。

 安定しているはずの大地が動くという状態は、昔から人びとに恐れられ嫌われてきた。過去に一度でも地すべりで土地が動いた場所は、身の安全を考えて屋敷地とすることはない。しかし西山山間地のような裾花凝灰岩層の上に村全体がのっている場合には、被害を受けても村を去るわけにもいかず、その後の地すべりを防ぐことに力が注がれた。地すべり地に生きる人びとは、幾世代にもわたって地すべりとともに生活をしてきたのである。今も七二会(なにあい)などでは山の高い場所に水田や家屋敷の平坦地があるが、これらの場所は昔地すべりで押しだされた土地であるという。地すべりによって押しだされた土地は割合に平らで日当たりもよく、滑りおちたあとのがけ口からはわき水が豊富に得られ、また新しい土壌が補給されるために地味が肥えているので、こうした場所に住みつくのだという。

 災害場所であってもその後、人が住める場所として開発されてきたのである。広瀬(芋井)も、昔からの地すべり地帯である。西山山中とか単に山中とかといわれる地域にあり、善光寺大地震のさいには、広瀬でも大きな被害が出た。広瀬では地すべりのことをヌケとかノケとかとよび、大きなものはオオノケというが、善光寺地震のさいの地すべりはまさにオオノケで、地すべり上部のノケクチとなった百舌原(もずはら)の人家も大被害をこうむったのである。

 百舌原で発生した地すべりは広瀬の中心部まで押しだし、集落上部の家屋敷が埋まってしまった。もともと広瀬は傾斜地の場所にあったとはいえ、現在よりもっと平坦な土地であったものが、上から押しだしてきた土砂によって集落上部の傾斜がよりきつくなってしまったといわれている。ぎりぎりのところで被害を受けなかった家とでは、屋敷の高さが大きく違ってしまい、なかには下の家の屋根棟と上の家の屋敷地の高さが同じになってしまったケースもみられたのである。

 地すべりは、地下水とも深く関係している。地すべりの多い場所は、村のなかでも地下水が割合に豊富な場所である。わかっているだけでも広瀬村上部の同じ場所で起きた三度のオオノケは、地震によるものも合わせてすべて三月の地下水が多くなる雪解け時期であった。同じ場所でのたびかさなる地すべり災害から村を守るために、明治十九年(一八八六)のオオノケ後にノケドメの神様とかノケドメ権現とかとよぶ、九頭龍(くずりゅう)権現をまつったのである。当時の土木技術ではたびかさなる地すべりを防ぐことができなかった村人は、地すべり止めの神様を信じたのである。九頭龍権現は、戸隠信仰の基底となる雨乞いの神様として広く信じられてきた神である。オオノケから家屋敷を守るために広瀬の人びとがどれほど苦労したかというあかしとして、現在も同じ地に九頭龍権現と水神(すいじん)の二体の神々がまつられているのである。


写真2-5 九頭龍権現(芋井広瀬 平成10年)

 水神として水をつかさどる九頭龍権現には、豊作を祈る村人の切なる願いも込められており、以後の災害防止は悲願であった。また人家まで押し寄せて家屋敷までも襲い、人命をもおびやかすようなオオノケは、ぜひとも回避しなくてはならなかったのである。現在この地帯一帯で、国の補助による地すべり対策工事がおこなわれており、ボーリングによる水抜き作業が進められている。

 こうした地すべりによる家屋敷の被害は、生活の基盤である土地そのものを削りとってしまったり、大量の土砂によって埋めつくしてしまうことから人びとに恐れられた。いっぽう平坦地の村の災害では、千曲川や犀川、またそれらの支流河川の洪水による水害が大きなものであった。