洪水と家屋敷

352 ~ 355

水は生活するうえになくてはならない大切なものであると同時に、ひとたび間違うと水害といった形で家屋敷や田畑を襲う恐ろしいものとして受けとめられてきた。とくに大きな河川に近い村では、大雨が降るごとにその危険にさらされてきたのである。とりわけ千曲川と犀川が合流する地域にある若穂や屋島(朝陽)は、水害との闘いの日々であったといってもよい。とくに牛島(若穂)ではたびかさなる水害を受けたために、自ら村を守ろうとして輪中(わじゅう)を造った。千曲川の堤防のみに頼らず、村の周りを囲った土手によって家屋敷を守ってきたのである。

 輪中跡が残る牛島は、千曲川と犀川が落ち合う合流地点にあるため、とくに洪水の被害をこうむってきた村である。享和(きょうわ)元年(一八〇一)の絵図によれば、牛島は千曲川を挟んで上牛島と下牛島に分かれていた。村は平均して一反歩ほどの屋敷地をもつ家々が多かったが、たびかさなる洪水によって川の流れが変わるとともに、上牛島地籍の家屋敷は流されてしまった。その跡には、石臼(いしうす)と井戸が残っただけであったという。被災者は荒れはてた家屋敷を捨て、下牛島や水害の心配がない赤野田(若穂保科)などよそへ移住してしまうものが多かった。現在では、当時上牛島の人びとが「向こう牛島」とよんでいた、下牛島だけが残ったのである。上牛島は現在の市場団地あたりで、それまでは付近一帯には桑畑や水田が広がっていた。しかし、千曲川が運んでくる黒砂と犀川が運んできた白砂の二色の砂が採れるといわれる落合橋近辺のこの場所は、洪水によって一度田畑に水がつくと上流から肥えた土が流されてくるので、その後一〇年間は肥料がいらないといわれるほど肥えた土地ともなった。


図2-18 輪中の村・絵図(若穂牛島 享和元年)

 輪中の堤防が切れそうになると、わらで編んだネコを何枚か土手にかぶせ、その上へ畳をのせた。また水はお墓を嫌うものだという言い伝えにもとづき、蓮生(れんしょう)寺の墓石をもち出してきて重石(おもし)として並べ、土手の決壊を防いだりもしたという。村内でも上流部に位置する蓮生寺あたりの背後の土手は、よく決壊する場所であった。努力もむなしく土手が決壊した場合には、輪中の内側にある人家は大変であった。水の浸入を防ぐための輪中の機能が失われたときは、逆に満水となった村内の濁流を排水することもできない状態になる。そのため、ひとたび輪中が決壊すると村内の家屋敷は悲惨なものであった。

 明治二十九年(一八九六)七月の水害では、輪中内にも水が入って家屋敷を襲った。床上三尺(約九〇センチメートル)も浸水したために、急きょ井戸端の木枠を高くしその上にネコをかぶせたりして、泥水が井戸のなかに入ることを防ぐとともに、味噌桶(みそおけ)を流されないように縛りつけたりした。しかし、すぐに引かない水のために村は水浸しとなり、建物の下側の壁は全部落ちてしまったという。そのようなことがあってから、今後の水害に備えてくず屋根の母屋や土蔵をてこでもち上げ、土台を三、四尺も上げて水がつかないようにした。


写真2-6 石積みされた土蔵
(若穂牛島 平成9年)

 自然の猛威による母屋や田畑の冠水によって、だいじな家財道具や食料類だけでも保護するために、土蔵の基礎部分を高くした。それとともに、洪水による泥水から大切な飲み水を守るために井戸端を一段高くし、そのうえ口元のけたも上げて濁流が井戸内に流入するのを防いだりもした。また水害時の生命の安全を考え、救助・脱出用の舟を軒下につるしておいた。

 こうしたたびかさなる洪水から村を守るために、落合橋上流右岸の伊勢宮地籍の土手に神々をまつった。左側に水神様をまつり、また蓮生寺前からもってきたという戸隠権現を右側にまつって洪水よけとしている。このように家屋敷に多大な被害をおよぼしてきた水害にたいし、人びとは輪中や近代的な河川改修の土木技術を駆使して防水努力をつづけるとともに、大事な家屋敷を守るために先祖であるお墓の墓石や水神様など、神仏に頼らざるをえない側面も合わせもっていたのである。こうした神仏の加護を願う意識は、地すべりによる被害を少しでもなくそうと願ってきた西山山間部の村人と共通するものでもあった。そのため牛島以外の千曲川や犀川の堤防沿いにも、洪水よけや水鎮(しず)めとしての伊勢社や水神様をまつっている例が多くみられる。