移住と過疎化

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時代の波にもまれながらもだいじな家屋敷を守ろうとふんばってきた山間地農村も、最近ではそれまでのすみかを離れて平坦地の新興住宅団地などへ移り住むものが多くなってきた。しかしこうした傾向は、以前からもあった。「先祖は昔、西山から下りてきて平坦なこの土地に住みついた」という話は、たとえば安茂里や川中島などの平坦部農村でよく聞かれる話である。

 七二会のN村は以前二〇戸であったが、現在一三戸である。これまでにも、七戸は安茂里や川中島方面に下りて家屋敷を確保し移住してしまった。その理由というのは、地すべり災害にあったためではない。この傾向は昭和三十年代からの高度経済成長が始まったころからで、住んでいた家屋敷は村内に残し移住していったのである。隣家とも親しくつきあってきた仲であったので、一家総出の移住時には村に残る周りのものは、いい知れぬショックを感じたという。こうして代々住み慣れた家屋敷を残して移住するという動きは、以前にも増して多くなった。

 しかし、近年の社会状況の変化と相まって、村であっても町と同様、人間関係の希薄化が進行している。同じマキ内であっても代が替わるとつきあいが少なくなり、本家・分家関係のような親戚(しんせき)同士のきずなさえも薄らいできている。それとともに現在、村内で農業に従事している三、四十代のものは一人もいない。みんな長野市街地に通うサラリーマンである。夏場は通勤もしやすいが、冬場の勤めが大変なために、冬季だけ市街に泊まるものも出てきたりする。さらには通勤の手間や生活の利便性を考えて、年中市街地のアパートなどを借りて生活するものも出てくる。このようにして家賃やこどもの教育、医療などのことを考えると、村の生活に比べて便利な町の暮らしに比重が置かれ、山間地の家屋敷よりも狭いとはいえ、市街地の家屋敷を求めるものが多くなってくるのである。息子に嫁を迎え、孫に囲まれた幸せな老後の生活設計を夢みていた親の願いは崩れ、老夫婦だけが村に残り、長男夫婦は町の団地で生活するという傾向が多くみられるようになってきたのである。

 このような傾向は、N村の場合も同様である。移住していった家を除いた一三戸は、現在も家屋敷を守って村内での生活を維持しているものの、村人にとっては複雑な思いがある。跡取り息子がいる一〇戸の家でさえ、自営して家にいるのは一人だけである。市街地に通っているものが四人、すでに市街地に家屋敷を確保して生活しているものが五人である。家を建ててしまった五人はもとより、通勤している四人も今後村に残るのかどうかはわからない。家からの通勤者も山間地のために嫁の来手が少なく、四〇歳を過ぎても独身という場合がみられる。老親は山間地で代々受け継いできた家屋敷を守りながら生活し、息子夫婦は地縁関係の薄い平坦地の住宅団地に住むという家が多くなってきているのである。山間地での理想と現実の差は大きく、親はあきらめにも近い形で息子夫婦の市街地での別居を許すこととなる。三世代の家族がみなで住めることを願っている老親たちも、願いがかなうためには山間地の道路をよくしてもらったり、嫁が来るよう家を新築するなどしないと無理な状況で、現実には過疎化はますます深刻化してきている。住み慣れた村の無住化とは裏腹に、新しい土地への定住化が促進されていくのである。その土地で生活すべき必要感がなくなったとき、人びとは家屋敷や田畑をも見放す決意をするのである。


写真2-7 お盆の墓参り(信更町 平成6年)

 ただ市街地に出た息子も実家への思い入れは強く、地理的に近い場所に出る傾向がみられる。加えて経済的にも土地代が安く、親に何かあったときはすぐ行ける場所を選択し、家屋敷を確保する場合が多い。土・日の休みを利用しては、田植えや稲刈りなどの手伝いをしに息子夫婦が下から上がってくるケースが多くなってきている。しかし、村に残る老親が片親になった場合は、息子夫婦が住む市街地の家に引きとる場合が、これからますます多くなっていくであろう。また家中が移住する動きは、歯が一本ずつ欠けていくようにじわじわと進行している現状でもある。ただ移住してしまった家の場合でも、家のきずなとしてのお墓だけはそのまま村に残していく場合も多く、人びとの意識のなかではお墓の存在がせめて過疎化の波にブレーキをかける役割を果たしているのである。お盆になると村を訪れ、お墓参りをしている息子家族の姿もみられるという。