土木技術の発達と新興住宅団地

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これまで人びとは、過去に災害が発生した危険な土地にふたたび家屋敷を造ることを避けながらも、そのたびにたくましく開発を繰りかえし、定住化をはかってきたのである。しかし、過去に発生した大災害の記憶も、ときの流れとともに村人の意識から薄れてくるいっぽう、近年の土木技術の発達によって、屋敷地として不向きな場所にも、家屋敷が造られるようになってきた。とくに昭和三十年代からの高度経済成長期には人口の増加もあって、それまで地すべり・がけ崩れ・洪水などで悩まされた危険地帯にも宅地造成が盛んにおこなわれるようになってきた。

 千曲川や犀川に沿った場所に、○○河原とか○○沖、○○島などとよばれる地籍が目につくが、これらは過去に幾度となく水害にあった場所である。そうした場所であっても最近は家屋敷が確保され、犀川両岸だけでも、小市南団地、伊勢宮団地、三本柳団地といった大きな団地がいくつか造成されてきたのである。

 犀川が善光寺平へ流れだす口もとの左岸にある安茂里小市は、毎年のように「あばれ犀川」による大洪水に見舞われてきた村である。とくに弘化四年(一八四七)の善光寺地震による大洪水では、濁流の高さは六丈八尺(約二〇メートル)に達し、安全だと思われていた一段上の小市中町までもが流されてしまった。その結果、三五軒のうち三軒が残っただけといわれている。その後も堤防を築いては家屋敷や田畑を守る努力がされてきた。家屋敷は、古くから水害の心配のない大町街道の旧道に沿った高い場所に確保されていたが、昭和四十年代からは犀川沿いに広がる田畑をつぶし、小市南団地や御堂沖団地などが造成されてきた。またそれより東側一帯には、犀北・伊勢宮の大団地が広がっており、かつての田畑も住宅で埋まってしまった。安茂里地区全体では昭和三十五年(一九六〇)に一八九三戸であったものが、平成六年(一九九四)には七九二〇戸と、三五年ばかりのあいだに四・二倍という飛躍的な増加をみせ、長野市のベッドタウンと化してしまったのである(『安茂里史』)。

 また、安茂里地区からみて犀川の向かい側にある川中島や青木島も、やはり水害の多かった地区である。最近ここには、三本柳団地が造成された。三本柳という地名は、洪水のたびに耕地の境がわからなくなってしまうので三本の柳を三角形に植えて、測量のときの目印としたことから付いた名であるという。以前は村人が「河原の畑」とか「河原の田んぼ」とよんでいたその場所は、対岸の安茂里地区と同様に洪水の被害を常に受けてきた場所であった。

 こうした「河原の畑」などとよび、狐も出没していた犀川沿いの寂しい村はずれの場所が、立派な住宅団地として生まれ変わってしまったのである。上氷鉋(かみひがの)(川中島町)の北河原・新田・寺田、稲里(更北)の久津町、青木島・丹波島(同)の耕作者が地権者となり、区画整理事業により宅地造成をしたものであった。だが農地の区画整理のため、自分の土地を手放してしまった人は少なく、引きつづき田畑として耕作している人もいる。また、土地の再活用として、アパート経営をしている人も三分の一ほどいたり、それまで村内にあった家屋敷から移住して団地内の自分の土地に新築して移り住んだ人もいる。そのほか区画整理事業の段階で余った保留地が一般に売りだされ、宅地として購入した人もいるなど、土地利用のケースはさまざまである。だが、引きつづき農業をつづけようとする後継者はだんだんに少なくなり、農地への未練も薄らぎ、土地を手放す人が出てきている現状である。


写真2-9 三本柳団地と公園(川中島町 平成9年)

 もともと住んでいた人びとが自分の土地を売却したあとは、新しく移り住んできた団地の人たちとの意思疎通が少ない例が多くみられるが、三本柳団地の場合はまだ村内の地権者が多いことから、団地そのものも村つづきの自分たちの土地として意識されているのである。ただ、以前は村はずれにあった墓地が、現在では団地の一角にすっぽり埋まり、外観からは新興住宅地に囲まれて村からは分離した場所のようにみえる。しかし、景観は激変しようと、村人の意識のなかには、なお村続きの土地や墓地として存在しているのである。

 今後さらに団地内の地権者の移動が進み、新しく移住してきた人びとのあいだで団地造成のいきさつさえ語られなくなったとき、かつて牛島村の洪水の波を墓石が守ったように、つぎつぎと押し寄せてくる開発の波をこの墓地が食いとめてくれるのであろうか。そのようななかで新旧住人の心温まる交流の空間が、墓地わきに公園として造られていることは幸いである。