家屋敷の移転は、今までみてきたように予期しない災害や社会情勢と深く関係した過疎化とか、商店街の空洞化とかといったことにともなう場合が多くみられた。それとともに新しい時代の波により、移転せざるをえない場合もみられる。
川中島町四ッ屋に家屋敷を構えるI氏宅は、屋敷わきをJR信越線が走り、川中島駅にも近かった。二〇〇坪ほどの屋敷地内には、明治十八年(一八八五)に建てられた間口八間半×奥行六間、棟が東西方向の二階建て、切妻造りの瓦葺(かわらぶ)きの家が建っていた。
ところが平成三年(一九九一)ごろから、JR信越線に平行して北陸新幹線が新設され、地区内でも一六軒ほどの家が線路上にかかるといった話がもちあがってきた。最初わが家が線路上にかかるとは思わなかったが、しばらくしてI氏宅も新幹線用地にかかることが判明した。それとともに、住み慣れた先祖伝来の家屋敷を手放すことに、大きな迷いがおきた。しかし、公共の名のもとに進められる新幹線工事であれば、移転せざるをえないのかなどと、悩んだ。
話が進むにつれて移転の気持ちも固まったが、できれば慣れ親しんだ同地区内に住めないものか、と土地探しまでしてみたり集団移転の話もしたが、どれも条件的に無理であった。ただ犀川を越えた北側の、知らない土地に移り住む気持ちはなかったという。そんなとき、北東へ約一キロメートルいった川中島町若葉団地内の一角が、新幹線代替地としてあっせんされた。時間的余裕もなかったので、家からは割合近くだし、土地勘もあったので移転先に決定した。ここには同じ地区から七軒が引っ越してきている。
移転先の決定とともに、新築の家の間取りを考えているなかで、せめて新しい家の一部に、元の家の形見として欄間や大黒柱を残したい思いが募ってきた。新幹線工事という公共事業とはいえ、自分の代で先祖から受け継いできた大事な家が、一瞬にしてごみ同然につぶされてしまうことには大きな抵抗があった。そのため、現在の家を何らかの形で残したい気持ちが強まり、そのまま移築・再生できないものかという思いにいたった。
専門業者にみてもらうと、建築後一〇〇年以上もたっていて、建て付けも悪くすきま風の入る家だが、使われている材質がよかったために、移築・再生することも十分可能であることがわかった。
平成六年(一九九四)三月に地鎮祭(じちんさい)をおこない、同年十一月に新居は完成した。元の広さに近い屋敷を確保したいと望み、敷地内に以前と同じ間取りの家を移築し、植え込みや庭石などすべて元の家にあったものをもってきて配置したのである。引っ越しにあたっては仏壇も移し、座敷の床の間にまつっていた神棚ももってきた。家財道具類でもまだ使えそうなものは、家具屋に見立ててもらってすべてもってきたのである。
一世一代の大仕事である新築工事にあたり、家運隆盛を願って建築儀式はひととおりおこなったという。地鎮祭には家の方角をみてもらったり、屋敷の神様であるという松本の猿田彦神社の土をいただいてきて供えたりと気をつかった。また、建築工程の全記録を残すことが自分の使命であると考え、毎朝建築現場に通っては工事のようすを写真記録として残した。上棟式の日、一度解体したわが家が、ふたたびよみがえってきた姿を見たときには、涙が出たという。上棟式では餅(もち)まきをしなかったが、棟梁(とうりょう)の儀式とともに行者にお祓(はら)いもしてもらった。こうして再生された外見や内部の仕様は、以前と似た造りとなった。しかし、外回りの建具や暖房・照明・給湯設備・台所・風呂・便所などは現代的な諸設備を備えた、快適な住まいに生まれ変わったのである。
新築祝いは日のよい日を選び、親戚をよんで翌年の四月におこなわれた。座敷に安置された仏壇前で、菩提寺(ぼだいじ)住職からオタマシイレという先祖の法要をしてもらい、つづいて棟梁も招いての新築祝いの宴がもたれた。その折は、北信流による祝いの席となった。招かれた親戚の長老らは、以前の見慣れた家がふたたび新しく生まれ変わったことを喜んでくれたという。
こうしてふたたびよみがえった新しい家と以前の家との大きな違いは、図2-22のとおりである。第一は、日当たりや取りつけ道路との関係から、玄関を以前の南東隅から北西隅に移動したことである。それまでは表側に一つだけあった玄関を使って客も家のものも出入りしていたが、改まった客用の表玄関とともに台所の裏口を内玄関とよんで、家族や親しい人の日常の出入り口として分けたのである。
また二間つづきであった上・下座敷の一室をなくし、冠婚葬祭の場である座敷を一間だけとした。以前から上座敷は大事なときだけに使われる部屋で、ふだんは布団などの家財道具の置き場として納戸(なんど)がわりとなっていた場所である。冠婚葬祭の形式も変化してきた現在、一〇畳前後の二間続きの大きな座敷は必要がなく、それより家族が毎日生活する居間空間を重視した結果でもあった。座敷を一間とした分、上・下座敷の呼び名はなくなり、単に座敷とよぶようになり、床の間の隣りに仏壇を安置した。床の間の鴨居(かもい)は、旧屋敷内にあったひもろの木を使ってある。また、上座敷は表玄関として生まれ変わったが、半分は以前からの納戸の機能も残した。そして玄関のあがり框(かまち)には、以前に切りたおした屋敷内のけやき材を使った。けやきの木は屋敷の守り神と考えられていたから、その切り株も大事にもってきて玄関に飾ってある。
また、中の間の大広間は座敷と同じ広さであったが、母親が生活する年寄り部屋として合う大きさに改造し、家族がいる居間つづきの日当たりのよい南側にもってきた。今は「おばあちゃんの部屋」とよぶ。
勝手周りは使いやすさを第一に考え、主婦の考えを最大限に尊重した近代的な勝手空間となった。それにつづく居間はリビングとよび、家族の団らんの場として一番大事に位置づけた。ごろりと横になりテレビを見たり家族が雑談したりと、みなが集まる空間として大切に位置づけている。また、旧玄関の場所を土縁とし、そのまま以前の面影を残した潤いのある土間空間とした。それに加え以前は座敷にまつっていた神棚を、家族がふだんいる部屋に移し、上から人が踏みつけない場所の下屋部分にあたる鴨居上にまつっている。
移築された家でありながら、一階部分に出入り口を二つ設けたことから、表向きの空間である西側の座敷を中心とした空間と、日常生活の場であるリビングを中心とした東側の空間とに完全に分かれた。そのうえ以前は、二階部分は夫婦部屋と納戸だけにしていたものが、夫婦部屋と二人のこども部屋をそれぞれ独立して設け、より私的な空間が二階に移動したのである。
こうした新居に住んで一年近くなるが、元の家と似た間取りであるし、室内のようすもあまり変わらないために、違和感がなく住み心地がいいという。ただ入居したばかりは、それまでの線路沿いの家のときのような電車の騒音が聞こえず、静かすぎてかえってとまどったという。しかし、以前よりも日当たりがよくて自家用車の出し入れも都合がよくなるなど、環境のよいこの地に移転してきたことに満足しているという。
また、新しい地での隣り近所との新たなつきあいを大事にしようとしている。川中島町若葉町には移転に関係した代替地を二十余区画確保してもらってあるが、ここに来た人びとは、それぞれに住み慣れた土地を手放して集まってきたのである。移転後一年を経過した現在、I氏は、少しでも早く意識を切り替え、新しいこの土地に溶けこんでいきたいと願っている。
新しく建った家々で構成される若葉町H地区の行政的役割は、組の仕事や衛生面などで少しずつ機能しはじめている。家族も地域内での交流が深まりつつあるが、今のところすぐ隣りの集合住宅に住む転勤族の人びととの触れ合いはほとんどないという。
また冬の大雪のときには、屋敷周りの道路の雪かきにも気をつかった。新しい住人として町内の自分の家の前だけが雪をかいてないようでは恥ずかしいという気持ちから、一時間かけて雪かきをした。新しい地に早く溶けこもうと努力しているI氏の姿のなかには、新しく建った家そのものの再生を喜ぶ気持ちとともに、新しく移転してきたこの地でしっかりと根を張ろうという思いが伝わってくるのである。
新幹線建設にたいしてこうした沿線住民の多大な協力もあり、平成九年(一九九七)十月一日には長野-東京間を結ぶ北陸新幹線の開業にこぎつけたのであった。
悠久な時の流れのなかにあって人びとが保持してきた家屋敷も、今まさに激動する社会のなかで大きく変わろうとしている。安全性や利便性のもとに、市内各地で宅地開発が推進される反面、過疎化や空洞化現象も進行しているのが現状である。人びとの流れは以前にもまして激しくなってきている昨今、家屋敷のあり方も大きく変化し、また家族のあり方も変わってきたのである。こうしたなかで、家屋敷をもちたいという願いとは裏腹に、宅地をもたない団地やマンション、アパート住まいの新しいスタイルも確実に増加してきている。
今後も家屋敷のあり方が、地域や家々の状況によりますます多様化していくなかで、産業や福祉、衛生、医療など、市民一人ひとりが安心して暮らせるための策がさらに講じられなければならない。