村の時間と町の時間

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繰りかえされる時間が、その生活と密接にかかわるものであるために、生活が異なると時間のあり方も変わってくる。村の生活は大地を耕し、自然の恵みによって作物を収穫する。天候の不順な年にはほとんど収穫できないこともあった。人の力によってはどうすることもできない、大自然の脅威にさらされながら生活しなければならなかった。だが、春夏秋冬は確実に繰りかえされる。きびしい冬を耐えれば確実に春が訪れる。大地をおおっていた雪は解け、黒い大地からは草木が芽吹くのである。繰りかえされる時間にたいする強い信頼が村にはあった。そうした意味で、村の時間は自然の推移とより強く結びついていた。社会集団としての村には、もちろん社会的な時間としての暦にもとづく時間が存在していた。しかし、それとともに生産活動と結びつく自然の時間が大きな役割を果たしていたのである。

 広瀬(芋井)では田の仕事を片づけるのは初雪が散らつくころとされ、それは十一月二十日の長野のえびす講の日であった。このときは冬を越すために長野の町に買い物に行く機会でもあった。

 長い冬が過ぎて待ち望んだ春の訪れは彼岸のころであって、「暑さ寒さも彼岸まで」といわれた。それはまた、農作業の開始のときでもあった。畑に出て草を取りはじめ、ささげやきゅうりの種まきも始まる。春になるといっせいに花が咲きだすが、それとともに農作業もいっきょに忙しくなる。奉公人の切り替えも春先の三月三日におこなわれることが多かった。


写真2-13 苗代作り(芋井広瀬 平成5年)

 田植えが始まる五月から六月ごろには木々の緑は濃くなり、草もいっそう茂ってくる。クサボケの時期であり夏の訪れである。その夏の終わりはクサガレとよばれ十月から十一月のころである。これ以前から収穫作業が始まっている。九月二十七日の秋祭りをすませると稲刈りが始まる。そして旧暦十月十日のトオカンヤが農作業の一段落する時期であった。田の仕事が一段落すると、畑の麦まきが始まる。小麦は十月下旬、大麦はえびす講がそのまき上げの目安であった。

 農作物の栽培は自然と深くかかわるため、村の時間には自然現象を目安とする時間が流れている。草木の繁茂する時期、草木が枯れ果ててしまう時期、それらの時間のあいまに行事が営まれるのである。改まった晴れがましい時間と労働の時間とは、自然の運行と深くかかわっている。

 農耕作業を基本的な生業としない町の生活の時間は、大きくは自然の時間に支えられつつも、人が作りだした時計の時間が大きな意味をもっている。社会生活を営むために、異なった自然環境に共通する時間が必要であった。役所や会社や駅などに勤めたり、商品の売買のための取り引きをしたりするためには、そのための時間がなくてはならなかった。暦によって定められ、時計によってはかられる均質な時間である。

 この時間は、町の生活を支配するだけではなかった。町にやってきて、町のにぎわいを支える村の人びととも無縁ではなかった。町の人びとは町の時間を村の人びとにもよく知ってほしいと願っていた。町に人びとを引きよせるための大売出しのときは、村の農作業の展開と深いかかわりがあったことはいうまでもないが、町独自の計画にしたがって実施する必要もあったからである。年の暮れに、商店がそれぞれのお得意さんに新しい「日めくり」やカレンダー、そして伊勢暦や高島暦などいろいろな暦を贈るのは、町の時間を贈ることでもあった。村の人びとにとっては町の時間を迎えることでもあった。なじみの商店名が、大きく華やかに入った暦をはることは、町との関係を確認することでもあった。


写真2-14 商店などが得意先に贈る暦
(平成10年)