町の生活はかつて村の生活と深い関係にあった。町の商店は村の産物を仕入れ、あるいはまた村の人びとをお得意さんとして商品を販売した。桜枝(さくらえ)町は中世から近世にかけて桜小路とよばれていた町であり、上水内郡戸隠村や鬼無里(きなさ)村などから訪れる人びとを対象として栄えた町であった。横町は吉田方面からの人びとを対象としていた。長野市域の町の人びとは、善光寺平とそれを取り巻く山間地を主な商圏として、生業をたてていた。もちろん大きな商店などでは、江戸(東京)や名古屋などとの交流も盛んにおこなわれてはいたが、それでも、かつての日常的な交流は比較的限定された範囲でおこなわれていたということができる。
しかし、明治以降しだいに経済圏や生活圏が広がり、他地域との交流が盛んになるにしたがって、限定的な町と村とをつなぐだけの時間では、生活を支えるのに十分ではなくなってくる。地域の自然条件とはかならずしも対応しない新暦の採用はその手始めであった。そしてその暦とともに伝えられた行事であった。正月七日の七草には「春の七草」を入れた七草粥(がゆ)をつくるとはいうけれども、実際にはまだ草が芽吹くには早すぎ、犬石(篠ノ井有旅(うたび))ではにんじん・だいこん・豆・白菜や勝手にある野菜を七色入れるというし、広瀬でも野菜などの青物を入れるのだという。三月三日の節供も桃の節供とはいいながら、実際にはまだ桃の花などは咲いていない。少しでも自然条件と一致させようとして一ヵ月遅れでおこなう行事もある。三月および五月の節供やお盆の行事などはその代表的なものである。あるいは十五夜などは旧暦にしたがっておこなおうとする。月の満ち欠けは新暦ともっとも対応しがたいものである。
また、かつて一年の始まりは暦にもとづいて一月からと考えられることが多かった。しかし、学校や役所などの年度の始まりは四月からとされ、進学・進級・卒業・就職・昇格・昇給などもこのときが中心とされるようになった。町の商店などもこの時期に大売出しなどをおこない、三月・四月は町の生活のリズムを形成する大切な時間の一つになった。
さらに行政上のさまざまな計画にしたがって、そのときどきの新しい時間が町に流れることもある。平成十年(一九九八)に開催された長野冬季オリンピックまでのカウントダウンなどはその代表的なものである。また、都市計画にしたがって進められる事業なども同じである。そのようなかなり大きな集団に流れる時間だけではなく、まったく個人的な時間もまた流れている。運転免許証書き替えのときなどというのは、誕生日が基準になるからまったく個人的な時間ということになる。それは誕生祝いや結婚記念日の祝いなどというのも同様である。かつてはあまり生活に大きな位置を占めていなかった、個人や家族に流れる時間も、最近ではしだいに重要な位置を占めるにいたっている。
村の時間・町の時間・国の時間などだけではなく、家族の時間・個人の時間、あるいは特定集団に流れる時間など、さまざまな時間が複雑に関連しつつ私たちの生活を構成している。