サラリーマンの季節

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町の季節は、自然とともに生活する村の時間と深くかかわっていたのであるが、そうした生活のありようがしだいに変化してきた。都市的な様相が強くなるとともに、減反政策などにより農業の占める位置が相対的に低下してきたのである。専業農家はほとんど姿を消し、兼業農家が主体となった。多くの人はサラリーマンとして働きに出た。人びとは昼間は村を離れ、その経済生活は町でおこなうことになった。

 かつて町の時間は村の時間によってある程度規制されていた。村の人が買い物に来ないことには町の生活は成りたたない一面があった。もちろん町のさまざまな情報などは村に流入し、あるいは商品が村に流行という時間をもちこむことも多かった。そうした意味では村の時間は町の時間に規制される側面もあった。しかし、日常的な生活リズムは村の自然の展開を基礎としていた。

 だが、サラリーマンの生活は、自然の時間を基礎とするのではなく時空を超えて共通する時間を基礎とする。それは町とか村とかという生活環境の違いを超越するものである。そうした時間が村から勤めに出ていった人びとによって村にもたらされる。町と村との時間の差は非常に小さくならざるをえなくなった。そこでは自然にもとづく時間の果たす役割は大きくはなかった。

 しかし、生活のリズムがなくなったわけではない。それが自然の変化と基本的にかかわっていないというだけである。そこに存在するのが地域性をもたない暦の存在である。一年一二ヵ月というサイクルである。サラリーマンはその一年を構成する月を単位として生活する。収入は毎月一定の日にある。掛け売りも盆暮れ勘定などということではなく、月ごとに清算がおこなわれるようになる。定期的な均質な時間の羅列である。

 そうした時間のなかにも年度を境する暦年度や会計年度などの切り替えの時期がある。これが入社や退職、あるいは昇格の時期となってサラリーマンの生活に大きな節目を作っていく。それはだいたい一年を一サイクルとするものであるが、営業年度などでは上半期・下半期という二つのサイクルによって構成されているものもある。あるいは夏のボーナスと冬のボーナスというものを基準としたサイクルによって、生活のリズムを認識することもある。

 いずれにしてもこのようなリズムは長野市域に限ったことではない。サラリーマンの生活世界が地域や国家さえも超えて世界的な規模に拡大していくにしたがい、地域的な特質は希薄にならざるをえないのである。そこに存在する季節は、暦のなかにのみ存在する観念的な季節である。サラリーマンの時間には五感によって認識できる季節は存在しないともいえる。

 しかし、自然から断絶した生活にはどこか無理がある。機会を求めて山野を訪れ、その自然の息吹(いぶき)に触れようとするのは、自然を失ったサラリーマンの時間のなかに、季節を取りもどそうとする切実な営みの一つである。