若槻地区の田子では、土葬と火葬が併存しており、火葬場は地区内にあったが、昭和二十九年(一九五四)に長野市に合併されると市が指定した火葬場での火葬へと変わってきたという。『若槻誌』によれば、このあたりでは江戸時代の半ばごろまでは火葬が多く、どこの村にもサンマイバ(三昧場)とよばれる火葬場があったが、後期になると松代藩が火葬を禁じたところもあり、土葬が盛んになった。しかし、衛生的観念の発達により明治の終わりころから火葬が復活したという。このような歴史的背景もある程度反映され、土葬と火葬が併存していたと考えることもできる。しかし、火葬には高価な薪が使用されるので、土葬にせざるをえなかったという事情もあったと思われる。互助組織の核となったのは隣組で、穴掘りや火葬場の準備や棺の運搬、また、地区内の火葬場を使用したときには、火葬中の遺体の管理までおこなった。ただし、ツイビト(告げ人)には親類の男衆があたり、親分が亡くなったときは子分の男衆が棺をかついた。喪家は葬儀の執行にはあまり手を出さず、多くは近隣の五人組や庚申(こうしん)講仲間が協力しあい、会葬者の接待から、穴掘り・帳場・出棺役付きまで万事を取り運んできた。葬儀後のお斎(とき)の準備も親類や子分の女衆に任される。葬儀委員長に相当する亭主役は親分が引きうけることが多い。これが一〇年ほど前の平成元年ごろから葬儀屋にすべて頼むようになり、料理屋でお斎をおこなう家も出てくるようになった。
旧善光寺町のある商家で大正十五年(一九二六)におこなった葬儀では、寺の庭でお経をあげたあとで、店の従業員が遺体を焼き場へ運び、隣組のものはお焼香に来るくらいでとくに手伝うこともなかったという。また、お斎と四十九日のときのお膳(ぜん)も料理屋に頼んだ。しかし、初七日のときには、近い親類や子分が料理を手伝ったという。
『若穂の民俗』によれば、若穂では葬儀の手伝いを「お伝馬(てんま)」とよび、コウジョ(庚申講の仲間)がそれにあたったという。男衆は告げ人に始まり、穴掘り、松の木を伐採して座棺・膳・香盤(こうばん)・位牌(いはい)・鍵(かぎ)などの引導用具まで作った。鍵はクサカキともいい極楽の扉を開けるものだという。いっぽう、女衆は墓前に供える紙花一対、葬列の灯籠(とうろう)、旗、天蓋(てんがい)飾りの竜やぼたんの花飾り、棺覆いの白紙を作ったという。
犬石(篠ノ井有旅(うたび))では、長野市に合併される昭和四十一年以前は座棺の土葬が主流であったが、昭和三十年ごろから寝棺も登場し、合併後は寝棺での火葬が一般的になった。市の霊柩車(れいきゅうしゃ)が松代にある火葬場まで遺体を運んでくれた。ここでは、葬儀にさいし分家からは二人ずつ、親戚からは一人ずつ、両隣からは一人ずつ手伝いに出るが、告げ人に出たり棺をのせた輿(こし)をかついだり墓穴を掘るのはオカノエコウ(御庚講)の講仲間であった。この役割は火葬になったあとも変わらないが、講仲間は座棺用の深い穴を掘ったりするのにかわり、骨箱が納められる程度の浅い穴掘りですむようになったという。お斎のときの勝手仕事は子分や親類の女衆がおこない、身内はいっさい手を出さなかった。しかし、最近では農協や民間のセンターに頼む家も多い。また、近くの境(信更町)では葬儀の講を二〇戸ほどで構成し協力する。
『松代豊栄(とよさか)誌』によれば、松代町豊栄では、昭和四十五年ごろまでは伝染病で死亡した人以外はほとんどが土葬であった。ここでも講中が活躍し穴掘りをするほか、葬具屋へ棺を取りにいったり、遺体の運搬から埋葬まで引きうけたという。松代町岩野などでは、埋葬には伊勢講があたる。