長野市西部のある山村では、昭和二十九年(一九五四)に長野市へ合併してからは、遺体を霊柩車に乗せ大峰山にある市の斎場へ運び火葬するようになるが、それまでは村内にあるヤキバ(ノーバ)で火葬していた。しかし、昭和二十九年を境に村外での火葬に急激に切りかわったわけではない。昭和三十二年におこなわれた葬儀でも、遺体は村内のヤキバで火葬されていたというから、徐々に移行したものと思われる。土葬については、こどもが死んだ場合は土葬にしたが、大人を土葬にしたという記憶は現在七〇歳以上の人でも、あまりないという。そのため年寄りがいる家では、火葬用の薪を用意しておくという気配りが日ごろから求められていた。葬儀は現在でも多くの場合は自宅でおこなうが、一〇年ほど前から葬儀屋に頼む家も出てきた。平成九年に葬儀を出したある家では、葬儀屋にすべて任せ、葬式も自宅ではなく長野の市街へ行ってとりおこなった。昭和三十年代前半までは全体的に貧しかったので、気取ってわざわざ遠くの檀那寺(だんなでら)から僧をよぶということはせず、近くの寺から僧一人に来てもらう程度であったというが、今はたとえ多少村から遠くとも、檀那寺から方丈(ほうじょう)さん(住職)をよんでお経をあげてもらうという。