いっぽう、このとき、喪家においては、お斎が二部形式で催されている。一座敷目は遠い親戚や会社の人たちなど義理でよばれている人を中心に膳が用意される。そして、二座敷目は火葬場から帰ってきた身内のものにたいして出される膳である。
昭和四十三年には、村内にもプロパンガスが入り、米はガス釜で炊いた。昭和三十年代にガスが使われるようになるまでは、燃料には薪が使われ、葬儀のときにはウチワのなかで年長で手慣れた人が「火焚(た)きばあさん」として飯炊きを任された。この役は動き回らなくともよいが、ずっとかまどについていなければならないうえに、火加減の調節などに熟練を要する。昭和二十年代までは囲炉裏(いろり)のところにレンガを積みあげて築いた改良かまどを使用していたが、昭和二十年代になるとレンガ製で囲炉裏にはめこむだけのハッピーカマドに切りかわった。ハッピーカマドは小ぶりの割りには熱効率がよかったが、焚き口に鉄の厚い扉がついていたので、火を焚いていても改良かまどのように足元が温まらないといって老人たちは愚痴(ぐち)をこぼしていたという。
献立にのっている「飯」は、実際には他の料理とともに膳の上に並べられたわけではなく、最後の杯のあとで味噌汁とともに出てくる。ここでいう汁は、いわゆるすまし汁である。また、中漬けとよばれる煮物は献立にあげた材料を醤油(しょうゆ)・砂糖・みりんで煮た。角麩は煮物のうえに飾りとしてのせる上盛りに使った。黒とピンク色の二つの渦巻き模様がついており、水でふやかして戻すと長辺が七~八センチメートルもある直方体の麩である。きんかん麩は豆のような小さい麩で、本膳料理の小皿にはきんかん麩と決まっていた。
昭和五十年代に入ると、お斎の膳がこのように手作りで出されることはあまりなくなり、両座敷とも仕出し屋から取り寄せることが多くなった。