長野市域における町・里・山という地域を概観してみよう。現代のようにさまざまな交通網が整備される以前の、移動にはもっぱら自分の足を使った時代には、日常的に人びとが村の外部と頻繁に交流することは少なかった。そのような時代には、多くの人びとの生活を強く規定していたのは土地そのもの、あるいは土地を利用しておこなわれていた生業であったといえる。そして一般的な当地の生業は、いうまでもなく農業であった。明治初期の『長野県町村誌』にもとづいて、昭和二十九年(一九五四)の合併以前の長野市域における、農家の平均的な土地利用のようすをまとめてみると、それはつぎのようなものであった。
農家戸数七一四〇戸、田総面積二五九四町歩、農家一戸あたりの田平均面積三・六反歩、畑総面積二五七〇町歩、農家一戸あたりの畑平均面積三・六反歩、水田率五〇・二パーセント、山林面積二六四三町歩、農家一戸あたりの山林平均面積三・七反歩。
土地に根ざした農業が生業の中心であったころには、現在以上におのおのの村には村ごとに特徴があった。それは、右の市域全体の平均値と、各村(旧町村)の田畑・山林の面積値や水田率とを比較することによって、浮かび上がらせることができる。そしてそれを手がかりにして、当時の長野市域における町・里・山の具体的なすがたを明らかにすることにする。