まず山林についてみると、それを所有している村と所有していない村とに分かれる。前者には、明治二十二年(一八八九)の町村制施行以降の町村単位であげると、長野町・三輪村・古里村・浅川村・若槻(わかつき)村・安茂里(あもり)村・小田切村・芋井村がある。さらにそのうち山林平均値である三・七反歩よりも高い数値を示している村をあげると、それは浅川村・若槻村・安茂里村・小田切村・芋井村の順となる。さらに詳細にみれば、たとえば右の若槻村内においても、かつての稲田村と檀田(まゆみだ)村は山林を所有していないなどというように、差異が含まれている場合もあるのであるが、まずこれらの村々は山的な要素をもった村であるといえよう。
つぎに、これらの村々の水田率についてみると、若槻村・安茂里村は平均値である五〇・二パーセントに達している。この二村を除くと、あとに残るのは浅川村・小田切村・芋井村である。そこでここではこれらの村を山と位置づけることにする。これら三村について、『長野県町村誌』の「民業」欄の「男」の項を見ると、たとえば浅川村内の伺去(しゃり)真光寺村には「農間伐薪以て市街へ販売し、又は筵菰(むしろこも)を織、索綯(さくとう)を業とす」、小田切村内の繁木村には「農隙(のうげき)薪炭等に従事す」、芋井村内の富田村には「農隙伐薪、紙漉(かみすき)、藁(わら)細工、大工、杣(そま)、銃猟等をなす」などとある。山という場に住む人びとが、農閑期を中心に薪を売り炭を焼き、杣、猟に従事することなどによって生計を立てていたことが知られる。
また、小田切村内の塩生(しょうぶ)村のように「余隙(よげき)は賃馬」をして、現金収入を得ていた村もみられる。山という場の特徴はこのような点に典型的にあらわれているといってよいであろう。なおこれら三村の水田率の平均は二四・六パーセントときわめて低く、一戸あたりの山林面積の平均は一町一反歩となっている。