つぎに、町の様相についてみていきたい。善光寺平においてはその名のとおりに、善光寺という名刹(めいさつ)を擁し、門前町を形成した長野町がその典型であるといえる。もっとも、長野町にも田畑はあったし、山林もまったくなかったわけではない。『長野県町村誌』から、農家数および民業の記述のない鶴賀村を除いて計算してみると、当時の長野町内には四〇四戸の農家が存在し、一戸あたり平均一・六反歩の田、三・四反歩の畑、および二・三反歩の山林を所有していた。しかし、その水田率は三二・五パーセントと山同様に低く、ここからは商業という第三次産業に重きを置いていたという町の様相がうかがえる。
商業地としての町には、その周辺地域からさまざまな人びとが日常・非日常にかかわらず集まってきていた。その目的はさまざまで、単に商品の品定めや、選択の幅の大きな商品を購入するためばかりではなかった。手に職をつけるために商家に丁稚(でっち)や小僧として住みこんで修業し、一人前になって店主から暖簾(のれん)分けを許され、新たに店を構えることを目的とする人びともいた。生活の基盤である土地の相続をあてにできない農家の二、三男にとって、町は自立した生活をめざす場にもなっていたのであった。ちなみに、当時の長野町における農家数四〇四戸にたいして商家数は一五八七戸であった。その合計数一九九一戸に占める農家の割合は、二〇・三パーセントにとどまり、ここには圧倒的に商家が多いという町の様相が示されている。