町からの距離と山の所有

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それでは、高度経済成長期以前の里における暮らしぶりとは、どのようなものであったのだろうか。里を取りまく町的要素・山的要素の強弱による環境の違いが、里の生活にあたえる影響に注目しながら、里の人の語りを借りてその暮らしぶりをみていくことにする。具体的には、長野市域の東部に位置する北長池(旧朝陽村)と中北部に位置する上松(旧三輪村)の里を対象としながら、その性格の違いをみていくことにする。

 北長池(朝陽)は、千曲川にほど近い平坦地で、かつては主として米麦二毛作と養蚕がおこなわれていた。そしてそこは、善光寺の門前町を中心とした市街地から直線距離にして六キロメートルほど離れた里であった。ちなみに『長野県町村誌』の北長池村の地勢の項には、「本郡(上水内郡)の東南隅に位し、東南に千曲川を繞(めぐ)らし、地形平坦にして稍丑寅(ややうしとら)(北東)の方へ低下す、運輸不便薪炭に乏し」と記されている。

 現在の人びとにとっては、六キロメートルと聞いてもたいして長い距離であるという印象はうけないだろうが、そのあいだを交通機関を利用することなく、徒歩で、あるいは物品の運搬のためにリヤカーを引きながら行き来した、かつての人びとにとってみれば、六キロメートルはかならずしも短い距離ではなかった。加えて、昭和三十年ごろまでは、北長池と市街地をむすぶ道路は道幅も狭く未舗装で、車が通ると砂ぼこりがひどく立つようなでこぼこ道であった。

 そのような性格をもっていた北長池という里にたいして、上松は旧市内まで直線距離にして二キロメートルほど離れただけの、いわば町に近い里であり、なおかつ山持ちの里と位置づけられるところでもあった。たとえば『長野県町村誌』の上松村の地勢の項には「西北大峰、薬師の両山を負ひ、南は雁寝ノ岡村落の半躰(はんてい)を塞(ふさ)ぎ、東南へ低下す。北国街道村の中央を貫き、運輸便にして薪炭乏しからず」と記されている。

 もちろん北長池を含む千曲川沿いの平坦地には、地形的にみて、山とよばれるものは存在しなかった。このような意味あいでも、上松と北長池とは異なる様相をみせた里と里であった。