このような環境の異なる里同士で、もういっぽうの里を眺めるとき、かつての人びとは果たしてどのような印象をもったのであろうか。
それを結婚をとおして考えてみよう。女性が他家に嫁(とつ)ぐということは、それまで自分自身が存在した場や周囲の環境を恒常的に変化させるということにほかならない。嫁は出戻りでもしない限り、嫁ぎ先での環境に適応しながら生活していかざるをえない。
そのことについて、かつて里の人は、よく働く山のほうから嫁をもらいたい、また逆に自分が嫁にいくならば栄えている町のほうに嫁にいきたい、つまりは不便な山のほうには嫁にいきたくないという気持ちがあったという話を聞くことがある。事実、上松のあたりに嫁にきた人は、浅川・若槻・芋井など、上松より北東部・北西部に位置する里や山からの人が多く、それより東南部に位置する里から来ることは少なかったといわれる。そのような意味で、里とはいっても山的な要素をもっていたといえる上松の地は、平坦地の里に生まれ育った人にとっては、山そのものともとらえられていたのであって、そうした地に嫁いでいくということは、好ましい状況ではなかったことが想定される。上松に住む人びとの語りのなかでは、平坦地の里はしばしば「タイラなほう」と称されている。これはおそらく山のような起伏のない「平ら」ということなのであろう。
しかし、千曲川沿いの平坦地の村から上松に嫁いできた人の話によれば、上松への嫁入りはその周囲の人びとにとってむしろ肯定的にとらえられていたという。そのことは、里の人びとにとって、上松の山的要素よりも、町に近い里であるという要素のほうが重要な事柄とも考えられることがあったことを物語っている。里の農家にとって町という場は、いわゆる都市的要素をもった場として位置づけられるところであり、そこに近い里というものもまた、それだけの理由で人びとにとって魅力ある場として映っていたのであった。
たとえば昭和の初年ごろに上松で生まれたある男性の記憶のなかでは、町は日常の生活の場とは異なり、さまざまな店が立ち並ぶところ、さらに具体的にいえば、ふだん見慣れない「芸者さんたちのいるところ」として意識されていた。かれはつぎのように語る。
「俺(おれ)がこどもの時分はね、深田町(箱清水)のあたりまで行くと町だなっていう感じがしたね。というのはね、善光寺から来る五差路(ごさろ)(五道の交差点)な、あのへんから上松のほうっていうのは商店なんて何軒もなかったんだよ、本当に。まあせいぜい数軒だ。まあ、湯谷(ゆや)の湯っていう、お湯屋があったからな、そこに入りにくる人がいたくらいでね。その程度だったんだ。ところがね、その五差路から町のほうへ行くとね、けっこう店があるんだよ。そして深田町のあたりへ行くともう、そこは芸者さんの町なんだよな。だからもう、そこは本当に町の感じなんだ。深田町の芸者さんの置屋っていうのは、遊びに行くところじゃなくて、置屋っていってね、今でいえば芸者さんがそこに下宿してたりしていたんだ。それでそこで三味線弾(ひ)いたり、踊りを習ったりしていたんだ。それで夜になりゃあ、芸者さんは権堂へ行ったもんなんだよ。深田町のあたりへ行けば三味線の音が聞こえていたんだ。置屋の二階でもってベンベンとやってるんだ。芸者さんが勉強してるんだ。昔の芸者さんは、三味線弾いて踊れなきゃあ、本当の芸者さんじゃねえもの。深田町のへんに行かなきや、三味線の音は聞こえてこなかったさ。だからあのへんへ行けば、なんとなく町場のような感じがしたな」。
そしてまた町という場は、かれにとって里では手に入れることができない流行(はやり)ものを商う場としても明確に意識されていた。昭和の初期ごろ、上松のこどもたちのあいだではハーモニカを吹くことがはやったというが、経済的な理由でそれを買い求めることができなかったかれは、善光寺門前の仲見世商店街に何度も足を運び、手持ちの小遣い銭とその値段を見比べながら、いつかはそれを手に入れたいと思いつつ、毎日を過ごしていたものだという。
このように町という場は、里に住む人びとから、日常生活の場とは異なる一種のあこがれの地としてみられていたのである。またその周辺に広がる町に近い里は、現実的にこどもたちでさえ、そこに足を運ぶことのできる場でもあったのである。別のいい方をすれば、町の近くで生活するということは、その場と日常的にさまざまな形での直接的な交流をもつことを可能としたのであり、実際の暮らしのなかで、町は里に住む人びとにたいしてなんらかの影響をあたえていたと考えられる。
さらに上松の場合、山持ちという要素もまた、周囲の里に住む人びとからはむしろ肯定的なものとしてとらえられていたともいえる。昔と違って、今では山を所有していることの意味が薄れてしまったといえるが、かつての山はたいせつな財産として考えられていた。