たとえば山は、電気やガスが普及する以前の上松の人びとにとって、なにより日常使用する燃料としての焚(た)き物を得るための場であった。上松では自分の家の山から拾い集めてきたボヤとよばれる小枝や、雑木を切りだして作ったマキとよばれる薪(たきぎ)などの木材を、焚き物として使用していた。家屋も田圃(たんぼ)も市街地から浅川へ向かう幹線道路沿いの平坦地に位置していたA家では、その道路から一キロメートルほど奥に入っていったところに自分の家の山を所有していたが、そこで日々使用する焚き物取りをしていたという。山から木を切りだしてくるのは、主として今はジイチャンとよばれている当時のその家の主人の役目であり、農業のほか庭師の仕事にも従事していたかれは、冬場の仕事のあいまをみては、ノコギリを使って雑木を切り、それをマサカリで適当な大きさに割って薪とし、勝手(台所)の近くなどに積み上げておいた。当時、家の周囲にこのように多量の薪を積み上げていた家は一般的に裕福な家だとみられていたという。
薪は火力が強いうえに、一度焚きつけてしまえば、あとは比較的長いあいだ一定の火力を保つことができたから、たとえば飯を炊くようなとき、カマドに火を焚きつけたあとは楽なもので、上松の主婦は時間的余裕をもつことができ、炊事のあいまにほかの仕事をこなすことができたという。このようにして上松の人びとが所有する山から伐採したマキや拾い集めたボヤを焚き物として使っていたのは、おおむね昭和三十年代前半ごろまでのことであった。それ以後山の焚き物は石油コンロなどにしだいに取ってかわられるようになっていった。
山の木材を焚き物として使用していた上松にたいして、山が存在しない北長池のあたりでは、まれに桑棒などの木材を燃やすことはあったものの、日常の焚き物としては主として麦藁(むぎわら)(麦の茎)が用いられていた。そのほか、稲藁や豆殼(がら)、あるいはもろこしの茎など、木材以外のものも焚き物として使われていたという。そこでは麦藁は、焚き物小屋とか麦藁小屋などとよばれる、専用の場所に保管された。隣の上高田(古牧)では、そのような麦藁だけを保管する小屋を作り、麦刈りのあとに山のように集めた麦藁を藁で束ね、小屋のなかに積みこんで保管していたという。
麦藁は稲藁に比べると火力が強いし、しかも燃え尽きたあとに残る灰の量が少なく、処理しやすかったため、焚き物として確かに重宝したという。しかし、山の焚き物と比べた場合には、その火力は弱く、飯炊きや湯沸かしにも木を燃やすのに比べて時間がかかってしまうし、燃え尽きるのも早かったから、主婦はその場にずっとつきっきりでいなくてはならなかった。そのため平坦地の里に住む人びとは薪を使用したがったが、薪の値段は安くはなかったため、一般の農家ではそれを日常的に購入して使うわけにはいかなかった。そこで、山の焚き物を比較的容易に手に入れることができた上松は、山のない里の人びとからうらやましがられたものだという。
もちろん山は、単に焚き物を得るだけの場ではなかった。山の人びとは所有する山から切りだした木を薪にして、それを背負って町を売り歩いて収入を得ていた。地附山(じづきやま)にある上松の山の場合には、冬場を中心にして切りだした木を馬を使って里に下ろし、製材して売っていた。また、山をもつ人びとは家を建てるときに、自分の山の木を建築材料として使った。A家を興したのは、地附山の中腹にある本家から分家したジイチャンであった。かれがこのあたりでもっとも早い昭和の初期ごろに、平坦地の田圃のなかに家を建てたときには、建築材料として山から切りだしてきた木材を使ったという。ジイチャンが自分の家を建てようと考えたとき、若いかれには資力がなかった。そこで建築材料のうち、予算の足りない分については、自分で切りだしてきた木を製材してもらって使ったのだという。