坂畑の存在と山への運搬方法

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このようにかつての上松の暮らしにおいては、山を財産として有効に利用していたが、その山の傾斜地には坂畑、縦畑などとよばれる畑があった。その畑は千曲川沿いの平坦地に位置する北長池の畑とは異なった様相を見せていた。もちろん上松のすべての畑が坂畑であったわけではないが、村の背後に山をもち、その斜面を有効に利用していた上松において、その割合は少なくなかった。

 たとえばA家では、三反歩ずつの田畑と、三枚、計六反歩の山を所有していた。この六反歩という面積はこのあたりの山の所有者のなかでは、ごく平均的な数字であり、多い家では、一町歩、二町歩という規模で山をもっていた。上松において古くからつづいている家では、たいていある程度の山を所有していたが、山を所有する家は全体の半分くらいなもので、分家した家などでは山のない家が多かった。A家の場合は所有する田畑のうち、りんご畑が山の傾斜地に位置する坂畑であった。

 坂畑は養蚕が盛んにおこなわれていた昭和十五年(一九四〇)ごろまでは、ほとんどが桑畑であった。その後少しずつりんご栽培に転換し、第二次世界大戦後には、ほとんど桑畑は姿を消した。当時蚕の病気がはやったことと、りんごの値がよくなってきたことが、転換を促進した理由であったという。

 山の斜面の坂畑には、地味を肥やすために時折藁や下肥(しもごえ)(人糞尿)を入れたが、それらを運搬する姿やその撒(ま)き方もまた、平坦地の里のやり方とは異なっていた。坂畑につづく山道の幅は狭く、リヤカーを利用することがむずかしかったので、藁などは背負子(しょいこ)を使って運搬することが多かった。上松のあたりでは嫁入りすると同時に、「これはお前の背負子だ」と真新しいものが婚家から渡されたという例もあり、坂畑のある農家にとって背負子は必要不可欠な運搬道具であった。また下肥は肥桶(こえおけ)に入れて天秤棒(てんびんぼう)でかついで坂畑まで運んだが、それを撒くときには、まず作物やりんごの木の根元に溝を掘ってから撒いたという。これは液状になった下肥が斜面に流れだしていかないようにするための工夫であった。

 またA家では、山からの焚き物その他、かさばる物を運びおろすときにはリヤカーを使用したが、そのリヤカーの後部にはズリボウ(コスリボウ・擦り棒)とよばれる、長さが一メートル、太さが一〇センチメートルくらいの丸太が付けられていた。ズリボウはくりやくぬぎなどの堅い材質の木材で作られており、リヤカーの後部から五〇センチメートルほど外に出るような形で取りつけられていた。そして荷物を積んで畑から坂道をくだるときには、前部の引き手部分を持ち上げ、このコスリボウを地面にこすってリヤカーを引く。つまり、そのコスリボウがブレーキの役割を果たしていたのである。だがコスリボウが地面をこするとき、でこぼこな坂道ではかなり車体が揺れたので、りんごなど傷(いた)むと困るようなものを下ろすときにはそれを使わず、リヤカーの後部に付けた縄を別の人が引っ張ってスピードをおさえるなどの工夫をしたものだという。


写真2-27 コスリボウをつけたリヤカー
(上松 平成10年)

 なお、リヤカーに代わってエンジンのついたトラクターが出てきたのは昭和三十年前後からのことであり、A家でそれを購入したのは同三十四年のことであった。そのころまでは人力のリヤカーが使われており、町と里のあいたでも、リヤカーを使った交流が頻繁になされていたのである。