ヒョットリによる銭の動き

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かつての上松では、日常的にヒョットリなどとよばれる日雇い仕事に出る人が少なくなかった。田畑からの収入だけでは食べるのがやっとであったというA家では、一家の大黒柱であるジイチャンが、ヒョットリに出ていた。かれは町場近くに住む植木職人のゴッシャン(親方、師匠)の家に出入りし、その手伝いをしながら日銭を稼いで一家の生活を支えていた。それは正式な勤め人という形態ではなく、親方から頼まれたときのみ仕事をし、その分の日銭をもらうという形であった。

 このようなヒョットリとよばれる人は、ふだんは家業の農業に中心を置き、冬場の農閑期や田畑の仕事が忙しくないときにのみ、町に働きに出る場合が多かった。そのため、親方から頼まれれば何の仕事でもやるというような、いわゆる「何でも屋」の様相を呈してもいたという。そのことはヒョットリを始めた当初のジイチャンの場合も同様であった。しかし、かれはのちにゴッシャンに庭師としての腕を見こまれたため、しだいに農業を家族のものに任せ、むしろ植木屋の仕事を中心とするようになっていった。そしてゴッシャンの死後にはその仕事を引き継ぎ、たとえば正月になると町場の割烹(かっぽう)料理屋によばれ、その店の注連縄(しめなわ)張りをするまでになる。親方によっては年齢的な理由で仕事をやめる場合もあったが、そのようなときにも、このジイチャンの場合と同様、得意先の仕事はその弟子に受け継がれたという。ヒョットリの場合にはこのような、いわば準専業とでもいうべき姿もときにはみられたのであった。

 このジイチャンも、昭和三十年ごろには、すでに庭師の親方として一人二人のヒョットリを使う立場になっていた。しかし、弟子たちはジイチャンが常に抱えこんでいる形ではなかったため、ほかに金銭その他の面で好条件の仕事があれば、そちらへ働きにいってしまうこともあった。つまり、一定の場に定着して働くというよりは、束縛されずに自由な形で働き、収入を得ていたところにかつてのヒョットリの特徴があったといえる。


写真2-29 植木職人(上松 昭和初期)
横山稔提供

 このように上松では、北長池のような農業を中心にしてある程度の収入を見こむことができる完全な農業地の里とは異なり、農業のみで一家の生計が立てられなければ、日常的に近隣の町場でヒョットリなどの仕事に就き、そこから収入を得ればよいという考え方をすることもできた。その意味で町と密接な関係を保ちながら生活していこうとする考え方が強かったと思われる。その背景には、まず徒歩で直接そこに行くことができたという、町に近い里としての上松の利便性があったことはいうまでもない。もちろん上松にも、農家からの収入のみで生活できる専業農家もないわけではなかったが、その数は多くはなかったという。かつては一家の主人が町の植木屋などへヒョットリにいき、嫁が近隣の果樹園へ働きにいく、そして残された年寄りが子守りをするという姿が、このあたりではよくみられたものであった。

 また、定職に就くという点からみても、北長池より上松のほうが早くから町に勤めに出る人が多かったという。その勤め先としては旧国鉄関係や電話局など逓信関係が多く、とくに「停車場」とよばれた旧国鉄の工場に息子を働きにいかせたいと考えていた上松あたりの農家は多かったという。それは、そこでは制服が支給されたし、また定時で帰宅できるので、そのあとは農業をすることができるという理由からであった。


写真2-30 旧国鉄長野工場(栗田 平成5年)

 それにたいして専業農家が多く、上松よりも農業に重きを置いていた北長池やその近くの旧古牧村あたりの農家では、農業から離れて町場に働きに出るという姿をあまり見ることはなかったという。

 旧古牧村に住む、現在でも専業で農業を営む人の話によれば、かつての田圃ドコの村では一町歩の田畑をもち、米麦二毛作をおこなっている農家といえば立派なものであったという。とくに第二次世界大戦後の食糧難のころには、一町五反歩の田畑をもつ農家は、県知事級の給料を取るとさえいわれ、一般の勤め人からうらやましがられたものだったという。しかし、その後、米麦の値段は抑えられ、経済成長にともないサラリーマンの給料が上がるにしたがって、相対的に農家の収入が減ってきた。反面、地租をはじめ、農機具代、肥料代などの必要経費は上昇する。そのように農家にとって不利な状況がつづくなかで、自家用をのぞいて米麦作りをやめ、換金作物を作り、こどもたちをサラリーマンにしながらも、農業をつづける人びとがいる。その人たちの言を借りれば、先祖伝来の土地への愛着は深く、自分たちには農業を生業としてきたものとしての土地へのこだわり、あるいは土地への執着心ともいうべきものがあるのだという。

 そのような、田圃ドコの人びとがもつ、土地への思いともいうべきものは、上松あたりで生まれ育った人が土地にたいして抱く思いとは違っているように思われる。身近に「町」という、いわば「自分自身の労働力を売り、その結果現金を得ることができる」場をもっていた上松においては、比較的土地にこだわりをもつ人は少なく、自分の土地を売るということについても、先祖にたいして申し訳ないという意識は希薄な気がする、と上松で生まれ育ったある人は語っている。