町と里のあいだには経済的な交流もあった。上松のような町に近い里では、日常的に現金収入を得る方法があった。それは「背負い商い」などとよばれる一種の行商である。もちろん上松でも、みんながみんな背負い商いをしていたわけではなく、だいたい一割から二割ぐらいの家がそれをおこなっていたといわれる。米麦二毛作を中心にある程度の収入を見こむことができた農家では、それをおこなう家は少なかったという。
背負い商いをおこなうには、家庭の経済状況のほか、個人の資質も大きく、一般的に心臓が強いといわれるような社交性のある人が、それをすることが多かったという。町場の商人のようにふだんから人間相手の仕事をおこなっていたわけではない農家の人びとにとっては、赤の他人にたいしてまず「こんちはー」などと声をかけることすら容易なことではなかったのである。
そのような背負い商いと一般の行商とのあいだには、正確にいうと目的に若干の違いがあった。それは、一般の行商は一家の生活の糧を得るためにおこなう生業にほかならないが、背負い商いの目的はいわば小遣い稼ぎであり、それをおこなう人にとって、自分が自由に使える金を手に入れるための一つの方策であったという点である。
A家では、背負い商いをするのはジイチャンのつれあいであるバアチャンの仕事であった。彼女は朝早くから屋外で用意をし、農作業に時間的な余裕ができると、家の人に行き先を告げることもなく箱を背負って町へ出かけた。その行動範囲は上松から見て、城山より先の旧市内区域であったという。
バアチャンが背負い商いで扱った品物は、出荷には向かない二級三級のりんごのほか、自家用として畑の隅で作っていたささげや枝豆の余りもの、また季節の花々などであった。一般には背負い商いで扱われていた品物は主としてりんごであったという。しかし、背負い商いをしていた農家がみなりんご農家であったわけではなく、なかには近所のりんご農家から籠(かご)一つ分のりんごを分けてもらったり、近くにある大手の果樹園からりんごを安く仕入れたりして背負い商いをおこなった人もあった。戦時中りんごは統制品であったこともあり、背負い商いがおこなわれていた当時はまだぜいたく品というイメージが強かった。A家のバアチャンの場合、たまに町の八百(やお)屋で出荷されたりんごの値段をのぞいてみては、それよりもいくらか安い値段を付けるなどの工夫をして売っていたという。
また背負い商いをする人のなかには、自家用の山羊(やぎ)の乳を搾(しぼ)って周囲の町や里に売り歩いた人もいたという。山羊の乳は当時大変栄養のある飲み物として、主としてこどもに飲ませたものであるが、現在のような宅配制度もなかったので、背負い商いで扱う乳は重宝されていたという。また鶏を飼い、卵をとっては町に売り歩くような人もあったという。
こうして背負い商いをする人びとは、さまざまな品物を町に売り歩いて得た現金収入によって、魚類や肉類など、町でしか手に入れることができない貴重なもの、珍しいものを購入していたのであった。
上松のあたりではそのような形でおこなわれた背負い商いであったが、北長池のあたりでは町から離れていたせいか、それをおこなう人はみられなかったという。北長池では買い物をするといっても、せいぜい一週間に一度くらいの割合で、自転車で長野の町に出かけていく程度のものであったし、たまに町場から行商がやってくるとはいっても、それは決まりきったにしんの干物や昆布など、新鮮味に欠けるものだけを売っていたのであり、そこでは行商そのものがあまり身近な存在ではなかったのである。
このような背負い商いを姑(しゅうとめ)の立場から意味づけてみれば、A家のバアチャンは自分自身が得た小銭を使い、長男夫婦や孫のために、当時としては高級な品々であった魚類や肉類、あるいは珍しい菓子類などを買ってくることにより、家のなかでの自己の位置を相対的に高めていたともいえる。A家の嫁(ジイチャン夫婦の長男の妻)は、上松に嫁にきてから、塩鱒(しおます)やさんまなどといった干物以外の魚を食べることができるようになり、非常に嬉しく思い、よくバアチャンには感謝したといい、結果として上松の地を、常に新鮮なものを食べることができる裕福な里としてとらえていた。現在と違い、食生活が貧しかった時代においては、決して大きな額ではなかったものの、自分自身が自由に使うことができる現金を得て、さまざまな食べ物を手に入れ、それを家族にたいして振る舞うことは、非常に意味のあることであったのである。
昔は家の主人(舅(しゅうと))が財布(金)をにぎっていて簡単には離さないことが多く、主婦が「お金をおくれ」などといっても、何だかんだといってなかなか素直には出してくれなかったという。それが嫌で自分が自由になる金を得るために主婦が家を離れて始めた仕事、それが背負い商いであったといってよい。かつて女性は家にいなければならないなどと盛んにいわれたものであるが、背負い商いをした主婦たちは、昼間自分が家を空けるにあたって、これは私だけがしているんじやない、まわりの女性もしているから自分もやるのだなどと自己を正当化したうえで、この仕事をおこなっていたものだという。
さらに別の見方をすれば、背負い商いにはもう一つ別の意味があった。それは家に籠(こ)もりがちであった農家の主婦にとって、それが情報というものを得る場、別な言い方をすれば、ほかの世界を知る場になっていたということである。この場合の情報とは、いわゆる世間話をさす。午前一〇時ごろに家を出て、午後三時から四時ごろには家に戻ってくるという、長いとはいえない時間のなかで、A家のバアチャンは町からいろいろな情報を仕入れていた。たとえば「桜枝(さくらえ)町の○○屋の団子がうまい」などと聞けば、翌日にはさっそくそれを買ってきたものだという。ある家に立ち寄り、お茶を一服いただき、世間話をしながら商いをし、家に帰ってくる。そのような繰り返しのなかで、町場にいく人もなじみの人、つまり、お得意さんを作る。そしてそのお得意さんから「あのバアチャンはきょうもまた売りにきてくれた。あのバアチャンが来ると話もできるし、新鮮なものも食べられる」などといわれ、生きがいを感じるようになり、いっそう背負い商いに精を出す。彼女たちにとって、町の人びとのところに寄せてもらい、さまざまな情報を得ることは、日常生活における数少ない楽しみの一つであり、その意味でも背負い商いは貴重な時間となっていたのであった。
このような背負い商いがおこなわれていたのはおおむね昭和四十年代半ばごろまでのことであった。農業の機械化、兼業化、それに商品作物の作付けなどにともない、以前に比べ農家自体が少しずつ経済的余裕をもってくる。その結果、背負い商いで銭(ぜに)を得る必要性も薄らいでくる。また背負い商いをおこなっていた人たちが年を取ってきたこともあって、その姿はしだいに消えていった。ここにも高度経済成長の影響がおよんだといえよう。
A家ではバアチャンが背負い商いで小銭を稼ぐいっぽう、ジイチャンも、植木職人として現金収入を得ていた。これによって得た現金は、一家の生活のために費やされることが多かったが、ときにはかれの毎晩の楽しみである晩酌に、鯨の肉などを添えることにも使われた。ジイチャンは仕事で得意先を回った帰り、町の魚屋で珍しいものを買ってきたという。このように、町において日常的に現金収入を得ていたジイチャンも、少なからず自分の自由になる金をもっていたのであった。これもいわば専業農家ではなしえなかった銭の使い道であったといえよう。