長野の町の人びとの生活は、善光寺平や西山の村々との結びつきが強く、互いに支えあって生活してきている。とくに、麻をとおしての西山との交流は早くからおこなわれていた。西山地方の換金作物である麻(大麻(たいま))の栽培は古く近世初期にさかのぼる。幕末ころから栽培がいっそう盛んになり明治中期には栽培地域が拡大し、生産高もさらに高まっていった。第二次世界大戦後までつづいてきた麻栽培も、麻薬(まやく)原料の栽培禁止、化学繊維の進出により衰退してきた。この麻の需要過程において、町の人びとにとっては麻問屋から注文された麻製品の仕事をすることができてよい収入源となっていた。
また、山とよばれる山間の村では、薪炭生産にも力を入れ、製品は町へ運びだしていた。薪炭は町の人びとにとっては囲炉裏(いろり)や風呂、暖房などの燃料として日常生活を支えていく大事な資源であった。
畑地の多い農村部や西山地方の養蚕農家で生産した繭を松代町の製糸工場へ出荷したし、町の種苗業者が種子を柏原(信濃町)や新潟県の今の妙高高原町まで販売に行ったりした。また、農機具の修理・販売、衣類・海産物などの販売のために町から山へ出向いたりし、町と山との交流が盛んにおこなわれていた。
ここでは、焦点をしぼってもっとも早くから交流の深かった長野市街の西部地域と西山地方の山との物資の流通をとおして、商家を中心にして人びとの交流のようすをみていく。