薪炭生産

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炭焼きには、石窯(いしがま)を築いて雑木(なら・くぬぎなど)を焼く方法と、地面に穴を掘って焼く伏せ焼きとがある。石窯で焼く炭は白炭で、カタズミともよんでいる。炭焼きを専門とする人たちのほか、冬の副業として炭を焼いた人もいた。

 石窯焼きは石窯による白炭の生産が主で、豊栄(とよさか)(松代町)、小田切や鬼無里村などでおこなわれていた。豊栄の炭は各方面へ出荷されていたが、明治初期には松代に製糸工場ができて多量の燃料を必要としていた。豊栄から運びだされる炭は、製糸工場を支える重要な燃料であった。


写真2-34 炭を俵につめる(小田切 昭和32年)
松瀬孝一提供

 小田切地域は約五〇パーセントが山林で、その大部分は雑木林であった。しかし、地域の人びとのなかには炭を焼く人は十数人しかいなかった。戸隠村・鬼無里村方面から焼き子がきて、炭焼き窯作りをはじめ炭焼きの仕事全般に従事していた。戸隠村・鬼無里村の人びとは、秋の取り入れが終わると炭焼きをやらせてくれと出かけてくる。小田切には、山林をいくつか買っておき、何人かの焼き子を雇って炭焼きを営む人びとがいた。一冬に四〇〇~四五〇俵くらい焼き、焼き子は焼き歩をもらい冬の農閑期の副業としてよい収入になっていた。

 炭俵は、地元で刈り集めて干しておいた茅(かや)で編む。炭焼きをする人だけでなく、炭焼きに従事しない人も編んでいた。

 伏せ焼きは地面に穴を掘って焼く方法で、格別の技術を必要としないために多くの農家でおこなわれてきた。炭の種類は、黒炭でやぶ炭ともいった。どんな原木でも炭になった。水の便がよく作業のしやすい場所を選んで、直径二メートル・深さ八〇センチメートルくらいの椀形(わんがた)の穴を掘って、そこへ切りだした原木を積み重ねて焼く方法である。焼き終わると水または冬場なら雪で火を消して、蒸し焼きをしながら炭にした。自家用としてこたつの炭火などに使用し、町へも出荷していた。第二次世界大戦中は木炭の需要が増加したので、農家の副業としてよい収入源になっていた。

 薪(たきぎ)の作り方は、一〇年未満ぐらいの雑木を伐り、その太いところはまきにし、枝などは束ねてボヤにした。ボヤは、三メートルくらいの長さのもの二、三十本をまとめて三ヵ所を藤のつるでしばり一束とした。このまきやボヤを山から運びだすのが大変であった。ショイコや肩でかついだり、冬はそりを使って運びだして、荷車やリヤカーなどに積んで長野の町場や大豆島(まめじま)・真島方面へ売りにいった。町の人にとっては台所や風呂焚(た)きの燃料として欠くことのできないものであった。