車のないころは、薪炭を牛馬の背につけたり、ショイコにつけて一日がかりで長野の町まで運んだ。早朝に家を出るために前日準備をした。みな弁当持参でだいたい同じころに家を出るので、ときどき四、五人の仲間といっしょになった。帰りもいっしょになることが多く、その日の収入のことや世間話をしながら帰路についた。
薪炭は、毎年同じ家に届けることが多かった。小田切の深沢には菓子屋は一軒もなく、小市などに買いにいっていたので、山から薪などを背負っていき、現金にして帰りに菓子や日用品などを買ってきた。飼っている牛馬は、冬場になるともっぱら薪炭運びに用いられた。ボイラーを焚(た)くのに薪を必要とする風呂屋・酒屋などから注文が多く、大量に運びとどけた。家庭からも注文があったりして、人びとの出会いも多くなり知り合いも多くなっていった。そのあいだに交流も深まり、結婚話が出て取りつぎ役になったりした。
炭を芋井から長野の町へ出荷しているあいだに知り合いになり、毎年届けてくれと頼まれつづけてきた人もいる。炭をあまり必要としなくなってきた現在でも、そのころからのかかわりがつづいて今度は町の人が山の畑まで行き農家の栽培した野菜を自分の手で収穫して、車に積んで町へ運んでくる光景などがみられる。山からも町へ行ったときは顔を出して交流がつづいている。まさに薪炭で結ばれた縁であった。